Smiley face
写真・図版
アジアン・カンフー・ジェネレーションの後藤正文さん

 音楽を演奏したり、気の置けない仲間たちと過ごしたり、そうした楽しい時間から離れて時勢に目を向けてみると、途端に不安な気持ちになる。

 パレスチナへの非対称な暴力と住民の排斥から国際社会の目を逸(そ)らさせるように始まった戦争について、悲しみや憤りが身体中に充満する。このような悲惨な暴力が続く歴史について、あまりにも勉強不足な自分に呆(あき)れるばかりだが、無知の殻に閉じこもり、遠い国の出来事とは無縁だと割り切って暮らすほど、鈍感にはなれない。せめて「市民を殺すな」と意思表示くらいはしているが、それだけで世界が変わるはずもなく、いつもの無力感に捕まってしまう。

 身の回りを見渡せば、真面目に暮らしている知人や友人が、外国から日本にやってくる人たちに対して、排外的だと感じる言葉を発する機会が増えた。オーバーツーリズムなどに関する問題提起にも、差別的なニュアンスが何げなく混じる。場を持たせるために、苦笑いを浮かべるだけの自分が情けない。

 「余所(よそ)者」という言葉が昔から使われていたのだから、どんな地域にも排外的な考え方は少なからず存在してきたと思う。ただ、その対象がふわっと大きくなり、そのうちに境界が鋭利になって、人間と家畜を分けるくらいの溝の深さで、あなたと私を分断する日が来るのを想像して、恐ろしくなる。

 生きるためにコップ一杯の水を求める人々へ、「どこの国の人間だ」と尋ねてから水を配る人はいないだろう。しかし、「日本人ファースト」というキャッチフレーズを、当然のことだと考える人が増えたと感じる。場面は違っても、このふたつの言葉は、精神的な貧しさを表しているという点でよく似ている。

 誰かがこぼした排外的な言葉を、聞かなかったことにしてやり過ごす。そんな自分の態度こそが、世界や社会を少しずつ暗くしているのかもしれない。(ミュージシャン)

 ◇毎月第4日曜日に掲載します。

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