神里達博さん

神里達博の月刊安心新聞+

 今年は戦後80年に当たる節目の年だ。一方で、戦争を経験した人の数は、最近では毎年およそ1%ずつ減っている。NHKが今回実施した全国世論調査では、戦争を「体験した」と回答した人は6%に過ぎない。すでに国民の9割以上が「あの戦争」を知らない。そして遠からず、それを誰も知らない時代が来る。

 個人的な話で恐縮だが、私の父も昨年、89歳で他界した。昭和9(1934)年生まれの、いわゆる「学童疎開組」である。基本、無口な人だったが、「疎開では食べ物がなくてつらかった」という話をよくしていた。子供の頃の私は「また疎開の苦労話か」と、正直、食傷気味だったのだが。

 そんな父の新盆と「80年」が重なったこの夏、父の遺品の中から、学童疎開に関する本を見つけた。開いてみるとその内容はとても具体的で、色々なことを考えさせられた。

 44年6月16日未明、中国・成都の基地を飛び立った米軍爆撃機B29は北九州を攻撃した。初めての計画的な本土空襲であった。しかもその前日には、日本軍の南方防衛線とされたマリアナ諸島のサイパン島に米軍が上陸した。これにより日本の本土を大規模に、無着陸で攻撃することが可能になったのだ。

 「学童疎開ノ促進ニ関スル件」が閣議決定されたのは、その2週間後、6月30日のことである。「極秘」と刻印されたこの要綱案は「防空上ノ必要ニ鑑ミ」という言葉で始まる。日本の都市が本格的に爆撃されるであろうことを当時の政府中枢は明確に理解していたのだ。

 もし、このサイパン陥落の時…

共有
Exit mobile version