劇団を率いるなど東京で活躍し、後に関西の演劇人を育てた伝説の劇作家、演出家が奈良に住んでいた。名は秋浜悟史。没後20年の節目に、軌跡と功績を振り返る。
石川啄木と同郷の岩手県渋民村(現盛岡市)で1934年に生まれ、大学進学のため上京した。岩波映画製作所でシナリオライターの傍ら、劇団三十人会を率いて作・演出を務め、劇作家の登竜門と呼ばれる岸田国士戯曲賞を受賞した。劇団を73年に解散し、妻の勤め先に近い京都府宇治市に移り住んだ。
奈良市の新興住宅地に居を構えたのは80年。娘の今本冴さん(47)によると、前年に大阪芸術大学(大阪府河南町)の非常勤講師に就き、夫婦の職場の中間あたりで家を探したという。
関西に来たのには理由があった。劇団の終わりごろ、よく「書けない、書けない」とつぶやいていた。早熟の天才が当たる壁にぶつかった。東京での演劇活動を退き、定職のないまま数年を過ごす。子どもが2人生まれ、稼ぐ必要に迫られた。
劇作家、演出家の内藤裕敬さん(65)は、演劇を一から学ぼうと79年に大阪芸大の舞台芸術学科に入学した。秋浜のことは知らなかった。
「書けなくなった劇作家がどんなにみじめか分かるか」
基礎訓練をたたきこまれた…