「タカトシを世に出せた。それだけで北海道に来た意味があったちゅうもんですわ」
吉本興業(本社・大阪市)の木山幹雄(72)が家族4人、雪の残る北海道に降り立ったのは1994年3月だった。「冬タイヤなのに滑る。いや、滑るって幸先が悪いな、と思いました」と笑う。
当時、ダウンタウンの東京進出で勢いに乗る吉本興業は、福岡など主要都市に拠点をつくりはじめていた。地方に埋もれる新人芸人とお笑いファンの発掘をめざしていた。
木山は札幌事務所の初代所長に任命された。だが、当時、北海道出身の芸能人といえば、歌手かタレント。漫才師と呼べる芸人はいなかった。
まずは芸人を。札幌吉本は北海道文化放送(UHB)とオーディション番組を立ち上げた。そこにやってきたのが、高校生のタカアンドトシだった。
ひとネタ見て思った。
「おもろい。ほんものや」
彼らの漫才は、ただふざけて勢いで笑わせようとする素人芸ではない。振りがあってオチがある、ちゃんとした話芸になっていた。ネタの構成もしっかりしていて、稽古を積んでいることがわかったという。
笑福亭仁鶴、横山やすし、明石家さんま。巨星たちのマネジャーを経験し、劇場支配人も務めてきた木山。「タカトシには売れるオーラがあった。あんなのはほかに、さんまとナイナイ(ナインティナイン)を初めて見たときだけ」と振り返る。
「高校卒業したらどうするんや」と聞くと「芸人になりたい」と言う。札幌吉本に入れた。
だが、とんとん拍子にはいかない。
30年前、寄席で漫才をする北海道出身の芸人はいなかった。いまや全国区の道産子芸人が続々とうまれている。「お笑い不毛の地」はいかにして、芸人の供給地になったのか。3回連載で考える。初回は札幌吉本がまいた種――。
絶対に通ると送り出した東京…