【連載】戦艦大和・最後の出撃を見送った男 第3回(全4回)
戦艦大和の水上特攻作戦は、沖縄戦のさなかの1945年4月4日、昭和天皇が海軍首脳に対して発した「航空部隊だけの総攻撃か」「海軍にもう艦はないのか」というご下問からわずか1日で立案・決定されたのではないか――。従来は公開されていなかった元連合艦隊参謀・三上作夫の録音証言はそのことを強く示唆しています。なぜ、昭和天皇はそのような質問をしたのか。その背景と、天皇の戦艦大和に対する特別な思いに迫ります。
- 第1回 「一参謀の独断専行」だったのか 戦艦大和・沖縄特攻を巡るミステリー
- 第2回 「もう、急きょ大和の特攻を考えた」元参謀が肉声で語った作戦の真相
- 第4回 戦艦大和の沖縄特攻 理不尽な命令に対し指揮官が最後に残した言葉
東京・神宮前にある旧海軍などの親睦団体「水交会」で聞いた三上作夫の証言(1988年)には、太平洋戦争中に参謀として過ごした日々が語られていた。
「米国は10年でも20年でも戦い抜く」開戦時の覚悟
41年12月の開戦直前、真珠湾攻撃に向かう艦隊の一員として択捉島単冠湾を発った際に、「米国は東アジアにおける門戸開放と機会均等を貫徹するためには10年かかろうが20年かかろうが戦い抜く」と海軍大学で学んだことを思いだし、「大変なことになった」と思ったこと。4隻の空母から零戦など艦上機が次々と飛び立ち、ハワイ・真珠湾へと向かう雄大な編隊を組んだ光景が忘れられないこと。42年のガダルカナル島を巡る作戦などで海軍の「ロジスティックサポート」(補給)軽視を実感したこと。44年10月に戦艦大和を擁する艦隊がフィリピン・レイテ湾への突入を逡巡(しゅんじゅん)していた時、自らの案で「天佑(てんゆう)を確信し、全軍突撃せよ」と打電したが、結局艦隊は突入を断念し、上陸中の米軍を撃破する機会を逸したこと――。敗勢が強まっていくのを実感しつつも挽回(ばんかい)できない苦悩が伝わってくる。
そして45年4月、海軍は主力艦艇の大半を喪失した状態で、沖縄戦に臨むことになる。大和部隊が沖縄に特攻する作戦のきっかけとなった「航空部隊だけの総攻撃か」「海軍にもう艦はないのか」という趣旨の「ご下問」をしたとされる当時の昭和天皇の思いは、どのようなものだったのか。私は東京都千代田区の明治大学で、陸海軍の「大元帥」としての昭和天皇を研究してきた山田朗教授に会った。
山田教授によれば、昭和天皇は「大元帥」として陸海軍の編成について最終決定権を持ち、戦況についてくわしい報告を受ける立場にあった。天皇の戦況把握力は非凡で、陸海軍を上回る的確な判断や指摘をすることもたびたびだったという。
そして、沖縄戦時の天皇は「…