森田茂彦さんが1940年から42年にかけて作った「わが家の新聞」=奈良市大安寺西1丁目の奈良県立図書情報館

 太平洋戦争の開戦を前にした1940(昭和15)年春、京都市内の13歳の少年が家族向けに新聞を作り出した。最初は身の回りの出来事が記事の中心だったが、徐々に戦時色を帯び、出征兵士とのやりとりなども掲載。少年の目を通した日米開戦直後の戦勝ムードを今に伝える資料となっている。

 数年前に日記と共に寄贈を受けた奈良県立図書情報館(奈良市)が、「二商森田君の『わが家の新聞』1940―42」と題した展示で公開している。

 新聞を作成したのは、森田茂彦さん(1926~2010)。B4大の手書きの紙面を約2年半にわたって毎月作り続けた。

 第1号は40年3月1日付。当時、京都市立第二商業学校1年生だった森田さんは、「記者・社長」として記事を執筆し、「我(わ)が家の明朗を増し、且(か)つ又(また)私達(たち)が少しでも勉強のたしになればよい」と狙いを記した。

 最初の頃は、呉服関連の店を営む両親など家族の「投書」を元にした記事で紙面を埋めた。母親やきょうだい、友人は投書してくれたが、父親からはなく、「火針(鉢)にもたれて居眠ってゐる時がありましたら投書してください」と記事で苦言を呈した。

 遠足で神戸に出かけたことや、昭和天皇・皇后の京都訪問を歓迎したことなどを詳細に記事にしたほか、「父は筍(たけのこ)のすし 僕はエビフライ(を食べた)」(40年6月)、「円山公園で名物(芋と棒鱈(ぼうだら)を炊いた料理)をごちそうになった」(41年4月)など当時の生活をうかがわせる記述もあった。

 国際関係が緊張する中、近衛文麿内閣の日独伊三国同盟締結で流行語となった「新体制」という言葉を使うなど、紙面には時事ニュースの影響もみられる。

 特に真珠湾攻撃後は戦争についての記述が一気に増えた。「感激記」と題した記事には、戦勝祈願に神社を参拝した際の街の様子に触れ、「ラヂオ屋では終日スヰッチを入れ、道行く人は誰も暫(しば)し歩を止め戦況ニュースに耳を傾けてゐました」と記した。新聞の発行日も「興亜奉公日」にあたる毎月1日から、開戦日にあたる8日に変更した。

 森田さんは新聞を前線で戦う兵士に送る慰問袋にも入れた。兵士からお礼のはがきが届くと、「戦友におおもてに読まれてゐます」という引用と共に中国戦線の地図を大きく掲載した。

 新聞は42年6月の27号が最後。続かなかった理由は不明だが、図書情報館公文書・地域研究係の佐藤明俊さんは「同時期の日記に練習の記述が増えることから、部活動とみられる籠球(ろうきゅう)(バスケットボール)が忙しくなったせいかもしれない」と推測する。

 紙面からは当時の少年の目を通した日本の戦勝ムードが伝わる。だが、最終号が出された6月にはミッドウェー海戦で日本海軍が大敗。戦況が悪化し、物資や食料不足が深刻化していくことになる。

 展示は3階の戦争体験文庫で2月27日まで。無料。問い合わせは図書情報館(0742・34・2111)へ。

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 「わが家の新聞」を作った森田さんはどんな生涯をたどったのか。

 京都府宇治市で暮らす次女(61)によると、森田さんは召集されたが戦地に送られる前に敗戦を迎えたという。「戦争のことで聞いていたのはそれくらい。戦後は銀行に勤めた頑固な昭和の仕事人間でした」

 少年時代に作った新聞の存在は全く知らなかったといい、遺品整理をする中で見つけた。図書情報館が文書資料を集めていることを新聞報道で知って寄贈したという。「私の知っている父の字にはすごく癖がありましたが、新聞の字はきちんと読めたのが驚きでした」

 森田さんの新聞作りにはお手本があった。切り抜いて保存していた雑誌「少年倶楽部」(1939年4月号)には、家庭の出来事をニュースに仕立てた新聞作りの方法が細かく掲載されている。

 教育者の野村芳兵衛(1896~1986)が書いたもので、作文教育の一環として家庭での新聞作りを推奨していた。タイトルや紙面構成、家族に寄稿を求めることやカーボン複写など、森田さんの新聞も初期の頃は記事もレイアウトも雑誌に載った例によく似たものだった。だが、「号を重ねるにつれて自分が関心をもった対象について長文を記すなど、独自性が出ているのが興味深い」(図書情報館の佐藤さん)という。

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