竹原高校の野球部監督を務めた迫田穆成さん=2023年7月11日、広島県三原市、辻健治撮影

 高校野球の発展に尽くした指導者を表彰する「育成功労賞」に、広島の高校野球を牽引(けんいん)した故・迫田穆成(よしあき)さんが選ばれた。広島商で選手、監督として全国制覇し、2年前に84歳で亡くなるまで高校野球に携わった。生前に何度か打診を受けたが、「わしはいいから別の人に」と断っていたという。家族は「頑張ったと思うので喜んでくれたらいいな」とたたえた。

 迫田さんは広島市出身。6歳のときに爆心地から2.5キロの自宅で被爆した。1957年の第39回全国選手権大会では、広島商主将として優勝旗を持ち帰った。67年に広島商の監督に就くと、春夏の甲子園に通算6回出場し、73年夏は優勝に導いた。如水館でも春夏通算8回、甲子園に出場した。

 「力がなければ頭を使え」と指導し、選手一人ひとりの能力を見ながら様々な戦術で勝ち上がる野球を確立した。広島商出身で同校校長の折田裕之・広島県高野連会長(59)は「グラウンドの上で、野球を通して選手たちの人間形成をしていた」と振り返る。「今でこそ、生徒の自主性と言われるが、当時から常に創意工夫をし、選手自らが考えて動けるよう指導していた」

「アイフォンだかサイフォンだかを買ってくれ」

 今回、県高野連が日本高野連に迫田さんを推薦。指導者として約40年間にわたる貢献を挙げ、「社会で通用する人間育成を目的とした指導を行い、高校野球の次の100年のために何ができるかを最後まで考え続けた」とした。

 推薦文をまとめたのは、如水館の責任教師として監督の迫田さんを支えた倉本隆司さん(43)。迫田さんからは「高校野球の次の100年のために」とよく聞かされていたという。「この言葉を聞いたとき、本当に野球が好きなんだなと感じました。高校野球に生きた人でした」

 時代にあわせて指導法を変えていった。如水館では、大会前にあえて練習時間を短くし、物足りなさを感じた選手が自ら練習に励むよう促した。ときには監督室に選手を招き、団子や桜餅を振る舞った。「あれだけの成績を残した人が、柔軟に指導を変える姿には驚いた」と倉本さんは振り返る。

 最後に指導した竹原では「アイフォンだかサイフォンだかいうのをわしにも買ってくれ」と長女の岩川智子(のりこ)さん(59)に頼み、スマートフォンを購入。選手たちとラインを交換した。2021年には岩川さんの提案で、ユーチューブ「迫田監督野球チャンネル」を開設した。「新しいことに飛びこんでいく人だった」と岩川さんは話す。迫田さんは23年12月1日に死去する直前まで、竹原の監督を務めた。

 育成功労賞に迫田さんを推薦する話は、今回が初めてではないという。「何回か声はかかっていました」と倉本さん。しかし、そのたびに「わしはいいから別の人に」と断っていたという。「監督らしいなと思います。謙虚で、周りをたてる人だったので」

 岩川さんも「父らしいです。生きていたら『いやいや自分はまだまだ』って言うかな。野球に対する父の愛が届いてうれしい」と喜ぶ。

迫田穆成・元監督の歩み

1967年 広島商監督に就任

 69年 春の甲子園出場

 70年 夏の甲子園出場

 73年 春の甲子園準優勝、夏の甲子園優勝

 74年 春の甲子園出場

 75年 夏の甲子園出場、その後退任

 93年 如水館(当時は三原工業)監督に就任

 97年 夏の甲子園初出場

 98年 夏の甲子園出場

 99年 夏の甲子園出場

2001年 夏の甲子園出場

 05年 春の甲子園初出場

 06年 夏の甲子園出場

 09年 夏の甲子園出場

 11年 夏の甲子園出場

 19年 如水館監督を退任

 19年 竹原監督に就任

 23年 84歳で死去

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