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新兵教育を終えたころの篠原光雄さん(上段右から3人目)。裏には、当時篠原さんが書いた「何時かは彼の大空で散る若鷲である!」との一文がある=1944年8月、篠原さん提供
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 多くの犠牲者を出したアジア・太平洋戦争。追悼の場では「尊い犠牲の上に、平和な日本がある」というフレーズが使われ続けている。戦争を起こした責任が忘れられていないか――。軍国少年だった男性は憂慮している。

 終戦の日の15日、テレビでは日本武道館での全国戦没者追悼式で式辞を述べる岸田文雄首相の姿が流されていた。「今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い命と、苦難の歴史の上に築かれた」

 福岡県田川市の看板絵師、篠原光雄さん(95)は思った。「またか」。尊い犠牲の上に、今の平和がある――。「国が戦没者を追悼するのは当然。だけど、なぜありきたりの言葉しか言えないのだろうか」

 篠原さんは元特攻兵だ。1944年7月、15歳でパイロットを養成する海軍飛行予科練習生(予科練)となり、45年2月に広島県大竹市に送られた。割り当てられた役目は、特殊潜航艇「蛟竜(こうりゅう)」の乗組員。事実上の特攻兵器の一つだ。

 でも、肝心の蛟竜が足りず、訓練で1度乗っただけで終戦。故郷の福岡市に帰り、戦後が始まった。

知覧で感じた悔しさ

 8歳ほど離れた兄はフィリピンで戦死し、父は別人のようにふさぎ込んで、49年に亡くなった。近所の「元軍人」への視線は冷ややかで、「特攻に行って親に心配をかけた」「予科練くずれ」と陰口をたたかれた。

 いたたまれず、船に乗る仕事…

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