「育成功労賞」を受賞した宮崎文仁さん=2025年6月18日、甲府市、池田拓哉撮影

 野球部の監督になりたくて高校教諭になった。

 故・蔦(つた)文也さんに憧れた。徳島・池田高を率い、1974年春の甲子園では「さわやかイレブン」と呼ばれたわずか11人の部員で準優勝。92年に監督を退くまでに甲子園で優勝3回、準優勝2回を果たした。豪快な攻撃野球「やまびこ打線」はファンを沸かせた。

 「地方の小さな公立高でも強くなれる」。希望を胸に、大学卒業後の87年4月、商業科教員として吉田商業高(現・富士北稜高)に赴任。さっそく野球部監督に就いた。

 以後、第一商業高(現・甲府城西高)、塩山高、北杜高、甲府商業高で監督を歴任。責任教師の時期を含めて通算28年7カ月にわたり高校球児と向き合ってきた。「商業科目が学べる高校は男子が少なく、部員集めには苦労しました」と振り返る。

 「生徒自らで考える野球」を大事にしてきた。試合中の適切な守備位置や練習メニューなどを生徒が主体的に考えるチームづくりを心がけた。母校・韮崎高でプレーした時代に、当時の監督から学んだ姿勢だった。

 北杜高では03年から8年にわたり監督を務めた。生徒たちと追求したのは「全力疾走」の野球。四球で一塁に向かうときも、バットを持ってベンチに戻るときも走るように指導した。自らもノック練習の後はベンチに全速力で走って戻った。

 「グラウンドでは持てる力を尽くしてほしい。すべては心の持ち方次第である、とみんなで復唱しましたね」。監督経験を積んだ40代の時期に、理想のプレースタイルを北杜高で実現できたことが誇りという。「春夏ともにベスト8止まりで、蔦さんのように甲子園には連れて行けなかったけれどね」と懐かしがった。

 旧明野村(現・北杜市)出身。小学生のころから野球少年だった。「テレビで見た福本豊選手(当時の阪急ブレーブス)のスライディングが格好良かった。左足を前に出して、何度も練習した」

 選手として、監督として、野球を続けて良かったと心から思っている。「あきらめなければ劣勢を挽回(ばんかい)できることを、野球は教えてくれた」。序盤、中盤、終盤。3イニングごとに気持ちを切り替え、ピンチからチャンスに転じられるのが野球独特の奥深さという。「まるで人生のようだね」

 最近、甲府市の自宅で家庭菜園を始めた。サニーレタス、キュウリ、オクラ、小松菜。「どれも主役」。野球も同じ。グラウンドで練習する全員が主役だと考えてきた。

 今年、高校野球の育成と発展に尽くした指導者に日本高校野球連盟と朝日新聞社が贈る「育成功労賞」に選ばれた。昨年に還暦を迎えてもなお、野球選手にあこがれる子どもたちを増やす意欲は衰えない。「私の人生はまだ、七回表。これから起きるドラマを、野球に関わりながら楽しんでいきたい」

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