アニメや特撮の脚本家として数々の名作を手がけ、92歳の今もミステリー作家として活躍する辻真先さん。88歳で発表し、ベストセラーとなった「たかが殺人じゃないか 昭和24年の推理小説」では、経験をもとに戦争の傷痕を描いた。自らを「反戦ではなく厭戦(えんせん)」と語る辻さんに、その思いを聞いた。
――SNSへの投稿で、「空襲を肌で体験し記憶しているのはみんな90歳台である。何かの形で書き残さねばならぬ」と書いていましたね。
「僕は1932(昭和7)年3月生まれで、戦争が終わったときは中学2年でした。妹が4歳下で、空襲も体験しているんですが、もう細かいことは覚えていないというんです。僕くらいが空襲を記憶している最後の世代でしょうから、語り残しておく義務があるのかなと」
――辻さんが生まれ育ったのは、どんな時代でしたか。
「満州事変が1931年ですよね。その翌年に生まれましたから、子どもの頃はずっと戦争が続いていたわけです。戦火のもとで育ったという感じです」
「日本は正しい、戦争は正義だと教えられていました。ものごころついた時には、日本は勝っていたんですよ。37年の南京陥落や42年のシンガポール陥落のときには、故郷の名古屋でちょうちん行列が行われたのを覚えています」
空襲は突然やってきた
――戦局が悪化すると、空襲を何度も体験したそうですね。
「45年3月10日の東京大空襲の2日後、名古屋でも大空襲があり、その後も何度もありました。名古屋には軍需工場があり、空襲が多かったんです」
「空襲というのは、戦局が悪化すると、警報より先に敵機が来て、爆弾を落とす。これはたまらないですよ。警報が出てからではもう遅いんです」
「中学校では、運動場に掘った防空壕(ごう)にみんな逃げ込みました。僕たち生徒は結構落ち着いていて、誰にも言われなくても自分たちが作った壕に入った。先生のほうがむしろうろたえていて、木につかまって震えていた人もいましたね」
――家は無事でしたか。
「すぐ隣までは焼けましたが、僕の家はぎりぎり延焼しませんでした。隣にあった家は、芋を買いだめしていて、焼け跡に、焼けた芋がたくさん残っていた。焼夷(しょうい)弾で焼けたから臭かったけど、食料のない時代だから、食べました。おいしかったですよ。あの芋の色と味は死ぬまで忘れないでしょうね」
――空襲の記憶で、いちばん鮮明なのは何ですか。
「爆風には『往復ビンタ』があるんです。爆風に備えて目と鼻と口を押さえて、吹きすぎたと思って安心したら、ほとんど同じスピードで吹き返しが来るわけです。そういうことは国も学校も教えてくれない」
「不思議なものでね、空襲のときの自分を別のレンズで撮ったように記憶しているんです。爆発の衝撃で自分の両足が一瞬、空中に上がった瞬間を、横から見たように覚えている。もちろんそんなはずはないんだけれど。瀕死(ひんし)の状態にある自分を客観的に眺めているように感じる『臨死体験』というのがあるでしょう。あれと似たようなものなのかとも思うんですが」
「爆撃が始まると、体を低くするくらいしかできることがない。あとは本当に運だけです。僕のいとこは一人で焼夷弾を2発受けました。空襲とはそういうもので、いまのウクライナやガザでも同じだと思います」
反省しなかった大人たち
――敗戦はどのように迎えましたか。
「45年の8月になってから、歴史の先生が、生徒を教室に集めて、窓とカーテンを全部閉めた。それで、日本は負ける、負けた場合に我々大人はどうされるかわからないけれど、まさか子どもまで殺されはせんだろう。だから、あとの日本をよろしく頼むよと言ったんですね。それから1週間たたないうちに本当に負けた。戦後、その先生は、間違ったことを教えて申し訳なかったと、学校を辞めて故郷へ帰っていきました」
「ただ、間違っていたと謝っ…