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判決の終わりに記された裁判官の名前。日本初の女性弁護士の一人で後に裁判官となった三淵嘉子も担当した=2024年7月5日午後4時11分、埼玉県所沢市、花房吾早子撮影

 被爆者らが期待してきた核兵器禁止条約への参加がかなわぬまま、広島選出の岸田文雄首相が退任する。来年3月にある第3回締約国会議へのオブザーバー参加も拒否するなど日本は条約に背を向けたままだが、核兵器は「国際法違反」と初めて指摘した裁判が、半世紀余り前の日本であった。中東や欧州で核兵器使用の危機をはらむ紛争が続く中、この判決の意義に光を当てようとする人もいる。

 1955年4月、広島と長崎の被爆者5人が日本政府に賠償を求めて裁判を起こした。

 日本の戦争犯罪は戦後、戦勝国側による極東国際軍事裁判(東京裁判)で裁かれた。だが、米国による原爆投下の責任は問われることのないまま、サンフランシスコ講和条約が52年に発効。その翌年から大阪の岡本尚一弁護士(1891~1958)が訴訟を呼びかけ、協力者を探した。

 原告となったのは、妻子5人を原爆で失った人、両親を亡くし生活に困窮する子ども、腎臓や肝臓に障害を負い働けない人ら。「悲痛極まる精神的苦痛」「名状し難き苦悩」などと被害を訴えた。日本の裁判所に米国政府を裁く権限はないため、日本政府に賠償を求めるほかなかった。

 政府が棄却を求める中、原告側が最大の争点にしたのは、原爆投下は国際法違反かだ。「人類社会の安全と発達とを志向希求する国際法と到底相いれない」と主張した。

 原告は、原爆がもたらす残虐な被害の立証を積み重ねる。爆風による破壊、熱線によるやけどや火災、そして、放射線による原爆症。「加害影響力は、旧来の高性能爆弾に比べて著しく大きく、しかも不必要な苦痛を与える」と訴えた。

 判決は、こうした原告の訴え…

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