パリで2024年11月、「女性に対する暴力撤廃の国際デー」に合わせたデモに参加した人が掲げたプラカード。書かれているのは「嫌だは嫌だ」=ロイター

Re:Ron連載「ことばをほどく」(第12回)

 「No means no」というフレーズがある。

 日本語にするなら「嫌だは嫌だ」といったような意味合いだ。つまり、「嫌だ」という言葉は拒絶の意味を持っているということである。これは同意のない性行為への抵抗のスローガンであり、特に女性が性行為への不同意の意志を表明しているにもかかわらずそれが無視される状況を可視化するための言葉として用いられている。そのため、性暴力事件の報道などがあったときにはこの言葉がSNS上で発信されたりするし、フラワーデモ(性暴力への抗議のデモ)でこの言葉が掲げられたりもする。

 「嫌だ」が拒絶を意味しているというのは、この言葉を理解しているひとなら誰でもわかるような当たり前のことだ、と感じるひともいるかもしれない。実際この言葉は、額面通りに見るとほとんど同語反復的に思える。しかし、「嫌だは嫌だ」という言葉がこのようにスローガンとして掲げられる背景には、「嫌だ」が拒絶にならないという現実がある。しかし、「嫌だ」というあからさまに拒絶のための言葉が拒絶にならないとはどういうことだろうか? 今回は、レイ・ラングトンという哲学者の分析を紹介しながら、女性やその他のマイノリティーがしばしば経験する、「嫌だ」が拒絶にならない経験について語っていきたい。

 少し遠回りになるが、まずは「そもそも言葉って何だろう?」というところから考えていこう。

 言葉について、いくつかの標準的な見方がある。そのひとつは、「言葉は何かのラベルになっている」というものだ。「リンゴ」という言葉はあの赤くて(なかには緑色のものもあるが)丸い果物のラベルである、という具合に。この見方によると、「嫌だ」が拒絶を意味するというのは、この言葉が単に拒絶という態度のラベルになっているということであり、それは単なる言語的な事実ということになる。要は、そういう言葉なのだからそういう意味を持っているのは当たり前だ、というわけだ。

性暴力被害の実態に沿った刑法改正を求め、法務省前に集まった「フラワーデモ」の参加者=2021年3月8日、東京都千代田区、遠藤啓生撮影

 他方で、「言葉はそれを用いて話し手の意図を表明するものだ」という見方もある。例えば私たちは文章を読んでいて、その言わんとするところがうまく理解できないとき、周辺の言葉を頼りに書き手の意図を推測しようとすることがある。そして、意図の推測に成功したら、「そうか、この言葉はこういう意味だったのか」というふうに納得する。このとき、私たちは言葉を意図の表明の道具と捉えていて、その背後にある意図に行きつくことが言葉の意味の理解であると考えている。

 この第2の見方からすると、「嫌だ」が拒絶を意味するというのは、話し手が拒絶の意図をこの言葉によって表明しているということになる。

 それは一見するとたいへんもっともな話に見えるが、この捉えかたにはわながある。「嫌だ」が拒絶の意図の表明であるならば、「嫌だ」が拒絶を意味しない状況があるとすると、それは話し手が十分に拒絶の意図を表明できていないとき、つまりは話し手がはっきり意志表示していないときである、ということになる。それゆえこの見方は、性行為の不同意の表明のための「嫌だ」がうまく機能しないとすれば、それは話し手の気の弱さやその他の性格、振る舞いの問題である、という解釈を促しかねない。

 これらの見方は、いずれも「嫌だは嫌だ」ということがわざわざスローガンとして掲げられることの背景をうまく捉えられていない。それが当たり前の言語的事実に過ぎないなら、そんなことをわざわざ掲げる必要はないはずだ。だって、その言葉を知っているひとなら誰もがその事実を知っているはずなのだから。他方でそれが単に話し手の気の弱さの問題なら、やはりわざわざスローガンとして掲げる意味はない。むしろ、話し手が自信を持って意志表明できるようにトレーニングすべき、などといった話になるだろう。

 「嫌だは嫌だ」は単なる言語上の事実でも、単なる話し手の気の弱さの問題でもないからこそ、掲げられているのである。そのことを理解しなければ、このスローガンが目指しているところを理解することはできない。

被害者を「黙らせる」のは

 ここで重要になるのが、「言…

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