戦後日本政治を牽引(けんいん)した故・宮沢喜一元首相は、若いころから将来のリーダーと目されながら、ライバルに次々と先を越されて、首相就任時は72歳になっていた。40年にわたり残した日録には、権力闘争における苦戦の跡が記されている。宮沢氏側近で長く仕えた田中秀征氏と「ライバル」について読み解いた。
吉田茂内閣で池田勇人蔵相の秘書官だった宮沢氏は、1951年のサンフランシスコ講和条約の調印式に出席。池田氏と行動を共にしながら政界入りし、池田内閣のもと42歳で初入閣。続く佐藤栄作首相にも気に入られ、50歳で通商産業相となり日米繊維交渉に携わるなど、順調にキャリアを重ねていった。
ところが、池田氏が創設した自民党派閥「宏池会」は、宮沢氏と関係が良好だった前尾繁三郎氏から大平正芳氏に会長が交代。蔵相秘書官仲間だった大平氏との関係は微妙で、その盟友である田中角栄氏ともソリが合わなかった。
秀征氏は「宮沢さんから大平批判は聞いたことがない」という。大平氏側近の田中六助氏や伊東正義氏らと宮沢氏の関係が悪かったことが影響したとみる。
72年の田中角栄内閣成立以降、自民党内の権力構造は田中派を率いる角栄氏による「田中支配」が強まり、宮沢氏の出番は減っていった。むしろ角栄氏と敵対した福田赳夫氏や三木武夫氏が首相のときに閣僚に重用され、ますます「大角」との溝は深まった感がある。
転機の一つは80年。史上初の衆参同日(ダブル)選のさなか、大平首相が急逝。その後継候補に宮沢氏が取りざたされる。同日選で自民党が圧勝した5日後の6月27日。宮沢日録に注目される記述がある。宏池会の鈴木善幸氏が角栄氏側近の二階堂進氏に、後継総裁に関する角栄氏の考えを問い合わせたとされるくだりだ。
「後継者の件、鈴木ギ(議員…