1945年8月、神奈川県の厚木飛行場に着いたマッカーサー連合国軍総司令部最高司令官(左)=マッカーサー記念館提供

「100年をたどる旅~未来のための近現代史」日米編④

 老境を迎えたダグラス・マッカーサー(1880~1964)は歓声と音楽に迎えられ、オープンカーで通りを進んだ。

 対日戦争を率いた米陸軍元帥。日本の占領政策を指揮した連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官。1951年4月27日に米ウィスコンシン州ミルウォーキー市庁舎の近くで見た凱旋(がいせん)の光景は、13歳だったチャールズ・マルケイヒーさん(87)の目に焼き付いた。

 街にはマッカーサーの銅像が立つ。郷土の「英雄」を誇りに思い、マルケイヒーさんらが運動して70年代に建てた。マッカーサーは、一族が深いゆかりを持ち、自らも若いころに暮らしたこの地を故郷として愛した。

 「彼にとっては、戦争に勝ったことではなく、『日本』こそ生涯最高の偉業だった。日本の人々が運命を自分で決められるよう、自由と民主主義をもたらした」とマルケイヒーさんは考える。

1951年にマッカーサーが凱旋(がいせん)パレードをした通りの前に立つチャールズ・マルケイヒーさん=2025年7月3日、ミルウォーキー、青山直篤撮影

 だが、第2次世界大戦から冷戦への激動期、「英雄」の振る舞いは矛盾をはらんだ。米国人の印象通り、日本に民主主義をもたらす決意で占領に臨んだのは疑いない。ただその占領政策においては、日本の民衆や政府はもちろん、米大統領や議会にすら制御できない独裁者のようになっていた。

 自らの正義を疑わない理念の「伝道者」であろうとし、服従のかわり庇護(ひご)を与える「家父長」として振る舞う。その姿は戦後の米国のありようとも重なる。

求められた日本の自立 マッカーサーは自らをカエサルに例え

 この「英雄」に、米国の世界戦略の観点から占領政策の修正を説き、戦後日本の歩みに決定的な影響を及ぼした外交官がいる。ジョージ・ケナン(1904~2005)。マッカーサーがパレードをした場所に近いミルウォーキー中心部に生まれ育ち、20世紀の米国を代表する外交戦略家となった。

 戦前から対ソ戦略に携わり米…

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