震災直後、多くの建物が津波にさらわれ、役場付近から海岸が一望できた=2011年4月、岩手県野田村、石井徹撮影

 東日本大震災の前から岩手県野田村の村長を連続5期20年間務めた小田祐士氏(69)が2月下旬、引退した。退任直前に村の復興や広域連携のあり方、国への注文など、人口4千人弱の村のリーダーとして語ってもらった。

 ――復興で最も重視したことは何ですか。

 二つあった。住まいなど生活再建のベースをつくること、もう一つは次の津波で少しでも被害をなくすことだ。

 津波で家が影も形もなくなった地域は、危険区域に指定して住民に移転してもらった。コンクリートの防潮堤を少し高くした。その内陸側にある道路や線路が二線堤の役割を果たしてくれる。

 さらに内陸側の、住居を建てていい場所との境に土の堤防を造った。土は高台移転の造成で削った土を有効利用した。津波でコンクリートの堤防が壊れても、その近くの築山は残った。土の防潮堤は地面と一体化していて強い印象があるし、コンクリートのように劣化しない。将来、コンクリートを補修するお金はもうないだろうから、次世代に私ができるのはこれだなと思った。

 ――被災地で最も早く高台移転が計画合意され、県内で最も早く災害公営住宅が建設されました。

 3月中に犠牲者が全員見つかったので、がれきの撤去が進み、住民と前向きな議論を始めることができた。最初は職員が地図に手書きしながらむらづくりの方向性を示した。私の家も津波で流された。被災した地区の人たちは幼い頃から知っていて、一緒に祭りをして酒を飲んできた人たちばかりだ。

 小さな村なので個々を知っているから動きやすいし話しやすい。親戚は同じ仮設住宅になど、きめ細かく対応できた。災害公営住宅を建てるときも、住民の希望する場所の地権者が快諾してくれた。地籍調査を終えていたので土地の境界線が明確で、早く整備できた。

 ――ただ、過疎化は進みました。

 他の沿岸よりは緩やかだが、残念ながら進んでいる。進出する企業は高速道のインターのそばや、盛岡に近い所を選ぶ。それより、村では高校生までの医療費や保育料を無料にするなど、早くから子育て支援に力をいれた。転入者が多くなり、今春の小学1年生は1クラスから2クラスに増えた。

 うちはベッドタウンでいい。お金をかけて集会施設を造らない。オーケストラを呼ぶ時は久慈市のアンバーホールを使うなど、広域的に連携していけばいい。

 ――国への注文は。

 例えば同じ津波で被災した家も、危険区域に指定しなかった場所は高台移転事業を適用できず、土地を買い上げてもらえない。高台移転の造成地が保安林だといちいち国や県の許可が必要で、勝手に切ってしまおうかと冗談で言ったこともある。

 各地で次々起きる災害のために、制度から漏れた人を拾い上げたり、手続きをスピードアップしたりしているのかどうか、私には見えてこない。

 ――一度は続投をめざしましたが?

 今の村長が立候補に踏み切れないでいたので出ると言ったが、もともと引退するつもりだった。もう私の発想は古い。

 盛岡のベアレン醸造所との人事交流も、養殖ホタテをブランド化する「荒海団」も、東京の国際基督教大(ICU)の学生らの「野田村にICU旋風を吹き起こす会」も、みんな若い職員や住民が関係をつくった。移転建設中の「道の駅」を村の玄関口にしたいと、裏手の山を散策する場にしようと動いている職員もいる。コロナ禍や不漁で村が疲弊している。こうした若い力で、少しでも元気な村にしてほしい。

 ――今度は何をしますか。

 ブロッコリーや山ブドウの収穫、側溝の掃除や除雪など、一村民に戻って人手の足りないことを手伝う。役場でできないところを自分たちで協力しながらやっていかねば。村長の時は言えなかったけど「権利もあるけど、義務もあるっぺよ」て呼びかけてね。

 1955年、岩手県野田村生まれ。村職員を経て2005年の野田村長選で初当選。連続5期務め2月に引退した。東日本大震災の津波で自宅が全壊。発生から約1カ月間、村役場に寝泊まりして陣頭指揮した。

 震災で野田村には最大約18メートルの津波が襲い、最大遡上(そじょう)到達高は37.8メートルに達した。村内の約3分の1にあたる515棟の住家が被災、うち311棟が全壊し、37人が犠牲になった。

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