慶応普通部のバレーボール部に所属していたころの清原正吾(中央)=中嶋雅巳さん提供

 24日に開かれるプロ野球のドラフト(新人選択)会議で指名を待つ一人が、慶大の内野手・清原正吾だ。西武などで活躍した清原和博さんの長男は、別競技をプレーした中高6年間を経て強豪大学で4番打者に成長した。プロの評価は未知数だが、異色の経歴を持つ大学生野手の足跡には他にない魅力がある。

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中学はバレー、高校はアメフト

 清原正吾は中学でバレーボール部、高校でアメリカンフットボール部に所属した。異例のキャリアを経て慶大野球部で主砲へと羽ばたいたが、土台には野球に熱中した幼少期の体験があった。

 「小さいころから、遠くに飛ばすのは得意だった」

 軟式野球チーム「オール麻布」の福住高志代表は懐かしむ。正吾が入団したのは小3の時。「物事を『やる』と決めたときの集中力はすばらしかった」。練習にのめり込み、ぐんぐん力を伸ばしていった。

 すぐ4番打者を任され、サードやショートを守った。小5のころの大会では、相手チームが「清原シフト」を敷いて通常の倍ほど後方に外野手を守らせた。「やりすぎでしょ」と福住さんは苦笑いしたが、正吾が引っ張った大飛球はその左翼手の正面まで飛んだ。

 父の和博さんは「甲子園に出てほしいな」と周囲に語り、「打撃の基本はセンター返し」との教えを授けた。

 しかし、正吾は小学校卒業と同時にバットを置いた。

 「大スターの長男として野球をすることを重圧に感じていたのかもしれない」。正吾は当時を振り返る。

 友人に誘われたのをきっかけに、慶応普通部(中学)ではバレー部へ。平日の練習は週2~3回。決して頻度は多くなかったが、中2の冬に東京と神奈川の私学が集まる大会で優勝した。

 ポジションはエースアタッカ…

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