連載「100年をたどる旅~未来のための近現代史」日米編①
1941年12月8日、日本軍が米国ハワイの真珠湾を攻撃し、日米は戦争に突入した。米側にとっては「奇襲」だったとされるが、日本による攻撃の可能性を事前に指摘し、回避しようとした米国の外交官がいた。
「米国と決裂した場合、日本が真珠湾の奇襲を計画しているという趣旨のうわさが広まっている」(41年1月27日の日記)
「米日関係が次第に劣化し、最終的に戦争に至ることがもう一つの可能性かもしれない」(41年5月27日の電報)
32年から開戦までの間、駐日米大使だったジョセフ・グルーが書き残した言葉だ。日本政府関係者とのやり取りや、米国務省へ送った電報の内容などを詳細に記した日記を始めとする関連文書は、母校のハーバード大学で保管されている。
開戦直前まで、米政府では「日本は攻撃をしない」という考え方が主流だった。国務長官特別顧問だったスタンリー・ホーンベックは41年9月、日本は中国との戦争に疲弊していると省内向けのメモで指摘し、「米日間の緊張の度合いは誇張されている」「日本が我々と交戦する可能性は低い」と主張した。
グルーは違う立場を取った。11月3日の電報では「日本が外国からの圧力に屈するより、国家としての自殺の危険を冒してまで、決死の行動に出る可能性が高い」と訴えた。日記には「日本の論理は、西洋の基準でははかれない。我々の経済的な圧力が、日本を戦争に追いやらないという信念を基に政策を立てるのは危険だ」と記した。
近衛・ルーズベルト会談 実現へ奔走したが…
だが、聞き入れられなかった。グルーは日記で、本国への報告について「まるで夜中に、池に小石を投げ込んでいるようだ。消えてしまい、多くの場合は波すら見えない」と嘆いている。
41年秋、日本側は近衛文麿…