インタビューに答える読売新聞グループ本社の渡辺恒雄会長・主筆

 19日に亡くなった読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏。渡辺氏に長時間インタビューし、「渡邉恒雄回顧録」を監修した御厨貴・東大名誉教授に、渡辺氏の記者人生や政界との関わりについて聞いた。

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 渡辺さんは昭和の男なんですよ。猛烈に勉強し、努力をした高度成長期の猛烈サラリーマン。猛烈記者になり、昭和の戦後を支えた人の一人です。もし、商社に入っていたら、猛烈社長になって世界に売り込みをかけていたと思います。戦争を経験した世代は、猛烈に頑張ることによって、戦争で亡くした友人に対して「生き残った自分は頑張っているぞ」との思いがあった。渡辺さんは、そうは言わなかったけど、やっぱり、そういう思いがあったんだと思います。

 入社当時は「あるべき新聞記者像」というのもなかった。特ダネを追っている記者と、書かざる大物記者の二つがいた。書かざる大物記者とは、相手の懐に飛び込んで情報は入るが書かない。渡辺さんは「書かない記者」を非常に嫌って、あるべき記者像を追い求めた。

 彼は言っていましたよ。「仲間と飲みに行ったら、『打倒! 朝・毎』って気勢をあげていた」って。彼が記者になったころは朝日新聞や毎日新聞が強くて、読売新聞の記者なんて政治家から歯牙(しが)にも掛けられなかった時代だった。それを彼は覆そうと頑張った。

 「今の若い記者たちは『打倒読売』と言っているに違いない。攻守ところを変えたんだ」と話していた。渡辺さんは色々策謀はするんだけれども徹底的に陽気なんですよ、陰気なところが全然ない。だから不思議に渡辺さんと直接会った人はあんまり悪口を言わない。

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 渡辺さんは「俺はここにいるぞ」って自らをアピールして、逆境にあっても、いかにそこを脱していくか考えていた。どんな逆境にあっても読売新聞を辞めたいと思ったことは一度もないんです。ただの人になる気もないから、社内でも猛烈に頑張って、大新聞記者になるぞと思った。だんだん読売新聞と一体化していって、2000年ごろには「我こそ読売新聞なり」となっていった。

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