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被爆直前に撮影された大竹幾久子さん(左)の家族写真=1945年7月、現在の広島市西区打越町、本人提供
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聞きたかったこと 広島

 母逝きて育ちし家も壊されて日本は「帰る」から「行く」国になる(朝日歌壇入選歌)

 米国カリフォルニア州に住む被爆者の大竹幾久子(きくこ)さん(84)は5月30日から6月1日まで、約10年ぶりに広島を訪れた。原爆で夫を失い、広島に住み続けた母は2001年に他界し、実家はもうない。ホテルに滞在し、原爆死没者慰霊碑の前で手を合わせた。

 1945年8月6日、爆心地から1.7キロの広島市打越町(現・西区)で5歳の時に被爆した。建物は瞬時に倒壊。左腕に大けがをした母が、幾久子さんと兄と弟の子ども3人をがれきの中から救い出した。

 だが、当時のことはよく覚えていない。母が「あんたは血が髪の毛にへばり付いてきて幽霊のお岩さんのようになった」と語ったように、頭に大けがをして失血状態にあったからだ。

 女手一つで子ども3人を育て上げた母は、原爆の話は一切しなかった。

 毎年開かれる8月6日の平和記念式典にも、広島平和記念資料館にも行かなかった。

「アメリカに帰化せし我をゆるし給ふや……」

 幾久子さんは大学卒業後、6…

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