「もう二度と私と関わらないでくれ、私の家族と関わらないでくれと思います」
被告の男(48)の公判で証人として出廷した兄(52)は、検察官に「被告に何か言いたいことは」と促されると、そう語気を強めた。
検察官 「それはどうしてなんですか?」
兄 「次は自分の番かなって思います。次は私が殺されるのかなって。怖くて会いたくないです」
頭を短く刈り上げ、グレーの上下の作業服姿で座っていた被告はうつむいたまま、証言台の兄に目をやることはなかった。
被告は2024年11月6日夜、新潟県内の自宅で同居していた母親(当時79)に暴行を繰り返し死亡させたとして傷害致死罪で起訴された。25年6月に新潟地裁であった裁判員裁判での兄の証言や被告人質問から、家族の姿をたどる。
「私はこの家の子じゃない」
兄弟は、新潟県内で飲食店を営む両親との4人家族だった。弟の被告は両親に可愛がられ、特に父親と仲が良かった。小学生の頃の兄弟仲を検察官から問われた兄はこう証言している。
「私はこの家の子じゃないんじゃないかって思うくらいに、親は弟の方を可愛がるようになりました。なので私はその頃、家出しています」
しかし被告は、中学生の頃から家族への暴力を繰り返すようになる。ささいなことで物を投げたり、脅したりするようになった。兄は、2回ほど包丁を持った被告に追いかけられたと記憶している。被告の体格や体力は兄や父を上回り、いったん暴力が始まると止めることができなかった。
中学を卒業した被告は父の紹介で土木関係の仕事に就いたが、長続きしなかった。兄が20歳になる頃、父が亡くなり、兄弟と母の3人暮らしになる。被告の暴力は主に母に向けられるようになった。
母の顔や体には絶えず青あざがあった。あごの向きがおかしくなったこともある。怖くなった兄は、夜遅くなるまで家に帰らなかった。
2000年に兄が結婚し、被告は母と2人の生活になった。被告は定職に就かず、仕事を転々とし、家事はすべて母が担っていた。23年に被告が飲酒運転で免許を取り消されると、兄は週1回ほど被告と母を車に乗せてスーパーへ買い物に出かけた。
ある日、いつものように2人を車に乗せると、母の額にばんそうこうがあった。
「どうした?」
兄が母に尋ねると、被告が割って入った。
「転んだんだよなー」
「そうだね」と母。
実際は被告の暴力による傷だった。兄も、被告に口止めされていると気付いていた。
その1週間後、被告の暴行で母が死亡した。
「母が身代わりになっていた」
法廷で兄は、母への気持ちを吐露した。
検察官 「お母さんはどのような人柄だったんですか?」
兄 「歌の好きな陽気な人でした」
検察官 「その後、変わりましたか?」
兄 「被告と2人暮らしになってからは、自分を押し殺して生活しているような感じでした。明るくはなかったです」
検察官 「お母さんにどんな言葉をかけますか?」
兄 「かける言葉はないです。私は怖くて何もできなかった。止められればよかったんですけど、暴力を受けるのが怖くて。母が身代わりになっていたような感じなので」
被告の暴力は断続的に続いた。それでも母は被告と離れようとはしなかった。「私の育て方が悪かった。もうしょうがない」。被告との別居が話題になると、母は兄に告げた。
「やっぱり自分の子どもだから可愛い、自分が産んだ子どもだからだと思います」
母が暴力に耐え続けた理由を問われた兄は、そう語った。
弁護側の被告人質問では、母への暴力を繰り返した理由が問われた。
弁護人 「暴力をふるった理由を説明できますか?」
被告 「生活に困って、自分…