80年前、日本の軍部は本土決戦を唱えて準備に奔走していました。装備も燃料も不十分な状態のなか、ペリリュー島や硫黄島、沖縄で米軍に大きな犠牲を強いた「後退配備・沿岸撃滅方式」を変更し、「陸軍総力を挙げた連続攻勢を、敵上陸の初動に対して敢行する」としました。防衛省防衛研究所戦史研究センターの齋藤達志2等陸佐は「制海空権をもつ上陸軍に連続攻撃を敢行するのは、軍事的合理性を度外視した作戦だった」と語ります。
- 沖縄慰霊の日 「沖縄戦」著者の陸佐が語る80年前の戦い
――なぜ、軍部は本土決戦を唱えたのですか。
1944年7月、サイパン島が陥落して「絶対国防圏」が崩壊しました。当時、日本本土の防空体制は整備されていたものの、本土上陸への備えは、ほとんどありませんでした。大本営は7月20日、「本土沿岸築城実施要綱」を定め、本土防衛のための骨幹的な陣地の準備を始めました。
さらに、フィリピンでの作戦が失敗し、日本は南方地域から完全に分断されたため、45年1月に「帝国陸海軍作戦計画大綱」を策定し、本土を中心とする防衛態勢を急速に確立していきました。
部隊の大動員の命令も出ました。一般師団40個、独立混成旅団22個のほか、砲兵や兵站(へいたん)などの部隊を含めて約150万人に及びました。第1次兵備から第3次兵備まで45年2月、4月、5月の3回に分けて動員が行われました。
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