「戻らなければ」
精神科医の姥浦(うばうら)一太さん(32)は年末年始、関西地方に滞在していた。1月1日の夕方。テレビで、大地震の速報が流れた。最も震度が大きかったのは能登半島北部――。昨年4月から自分が勤めている病院がある、石川県珠洲市の様子が映っていた。
2016年に金沢大学医学部を卒業した。大学病院などで勤務した後、23年4月、珠洲市総合病院に赴任した。隣の能登町の公立宇出津(うしつ)総合病院の外来も担当し、地域で唯一、そして少なくとも数十年ぶりの、病院に常勤する精神科医となった。
最初の1年が終わる、年明けに起きた震災だった。姥浦さんはすぐに非常食や簡易トイレの調達に走り、2日夜に石川県白山市までたどり着いた。3日早朝に出発し、金沢を昼前に通過した先で、惨状を目の当たりにした。
道路が陥没しているため、迂回(うかい)を繰り返した。どの道を進むのが正しいのかもよく分からない。がたがたの道でタイヤがパンクしないか気を張り、珠洲市に着いたのは、夜10時ごろだった。途中、赤色灯を光らせる消防車やパトカー、見慣れない自衛隊の車両や救急車と何度もすれ違い、非常事態だという実感が強くなった。
到着後に病院で話し合い、翌4日には精神科の外来を再開することになった。幸い、電気は復旧していた。薬を毎日飲まないと症状が悪化する患者もおり、被災して間もない時期でも、患者は次々と訪れた。
病院でも、疲弊した職員の姿が目立つようになっていった。ずっと病院に泊まり込んでいる人や、避難所に戻ると医療従事者としての仕事を求められ、休めないという人もいる。日が経つにつれ、燃え尽きた状態になり、うつっぽい症状を訴える職員が出てきた。外来で患者を診ながら、病院内でも不調を訴える職員の対応にあたった。
「自分は倒れられない」「休めない」。使命感に追われるように診療にあたり続けて1週間ほどしたころ、姥浦さんは食事中、急な吐き気を感じた。
能登半島地震が発生してから…