聞きたかったこと 広島
「広島では一瞬にして多くの生命が奪われた。ガザで起こっていることもジェノサイドそのものではないか」
2月28日、原爆ドーム前でマイクを握った。ニュースで見るパレスチナ自治区ガザの状況が、被爆後の広島の惨状に重なって見え、停戦を訴える活動への参加を決めた。
原爆投下時、岡原民幸さん(85)=広島市西区=は小学1年生だった。その1カ月ほど前に、広島市から板城村(現東広島市)にあった父の実家へ母と兄と疎開したばかりだった。
1945年8月6日朝は、通っていた板城東国民学校(現板城小学校)の校庭にいた。先生が早く校舎に入るよう呼びに来て、広島の方角に煙突のような雲を見た覚えがある。
庁内報で連載「原爆は我に何を教えたか?」
岡原さんは翌日いつも通り登校したが、母親が呼びに来て家に帰ると、真っ白な布団の上に血だらけで父の稔さん(当時42歳)が横たわっていた。顔にひどいけがを負い、見た目では稔さんとわからなかった。稔さんは大蔵省の出先機関の財務局職員で、勤務先の庁舎は爆心地から約800メートルの八丁堀にあった。
20日ほど経つと、稔さんの全身に紫色の斑点が出た。原爆症に苦しみ、生死の境をさまよった。稔さんのうめき声は今も耳に残っている。
原爆投下から1週間後に、岡原さんは白島にあった自宅の様子を見るために母、兄と広島市内に入り、入市被爆した。
自宅は跡形もなかった。近く…