航空特攻だけでなく、人間魚雷「回天」、ベニヤ製ボート「震洋」など、日本軍は数々の特攻兵器をつくり、若者たちが命を落とした。死者は6千人ともいわれる。
特攻作戦。その指揮を執った司令官たちは、どう戦後を迎えたのか。
1944年10月にフィリピンで最初の神風特別攻撃隊を編成し、特攻作戦を始めたのは大西瀧治郎海軍中将だった。45年5月に海軍の作戦を指揮する軍令部のナンバー2に就任。最後まで徹底抗戦を主張した。
そして、終戦翌日の8月16日、官舎で割腹自殺した。54歳だった。
大西中将は、複数の遺書を残している。「特攻隊の英霊に日す 善く戦ひたり深謝す」で始まる遺書では、特攻隊員らへの思いや遺族への謝罪を記した。
最後の特攻に出撃 「部下道連れ」の批判も
第五航空艦隊司令長官の宇垣纏(まとめ)中将は、玉音放送を聞いた直後、最後の特攻攻撃に出撃したことで知られる。
宇垣中将は45年2月に鹿児島県・鹿屋に赴任し、海軍の沖縄方面への航空作戦を指揮した。旧防衛庁防衛研修所編の公刊戦史・戦史叢書(そうしょ)には、送り出された特攻機は約1千、戦死した隊員は計1700人と記されている。
宇垣中将が残した日記「戦藻…