一橋大学大学院社会学研究科専任講師の田中亜以子さん=2025年7月18日午後、東京都国立市、照井琢見撮影

 朝日新聞夕刊の連載「オトナの保健室」では、恋愛について考え中です。取材メンバーで企画会議をすると、疑問百出。「男女の友情は成立するか」と、なぜこんなに繰り返し問われるのだろう。なんで恋愛関係はこんなに特別視されるのだろう。そもそも私たちが「恋愛」と名指す関係性とは何だろう――。

 ということで、今回は歴史的な観点から恋愛について研究した著書「男たち/女たちの恋愛」(勁草書房)のある、一橋大学大学院社会学研究科専任講師の田中亜以子さんに聞きました。こちらは前編です。

  • 連載「オトナの保健室」
  • 【後編】恋愛至上主義の火付け役は朝日新聞 男の理想、女にとってマシな選択

身分に代わり、性別が前面に

 ――エンタメ作品でもネットの記事でも、恋愛と対比するように「男女の友情は成立するか」という問いが繰り返されるのは、どうしてなのでしょうか。

ネットで検索すると、朝日新聞も「男女の友情は成立するか」をたずねていた=Google検索の画面から

 この問いは、私たちが持っている人間観と密接に関わっています。

 たとえば、多くの人はこんな問いかけはナンセンスだと思うのではないでしょうか。「お金持ちと貧乏人の間に友情は成立するか」「日本人と外国人の間に友情は成立するか」。同じ人間なんだから成立するに決まっているじゃないか、と。

 なのに、男と女に関しては男女交際論が登場した明治期からずっと、その議論が続いています。なぜか。それは「男女は根本的に違っている」けれども「男女は同じ人間である」という二つの命題が存在しているからです。

 近代社会、日本で言うと明治時代以降の社会は、「身分」の違いが取り払われていった半面、性別の違いが前面に出てきた社会だと考えています。

 たとえば江戸時代の女子教育に使われた「女訓書(じょくんしょ)」という書物には、女性のイラストが身分ごとに描かれています。それが近代に出てきた月刊誌「青鞜(せいとう)」の表紙だと、抽象的な女性のイラストになっている。身分の差が見えなくなり、抽象的な「女」「男」という存在が作られていったと見ることができます。

「青鞜」創刊号の原本(右)と復刻版(左)

 そもそもセックスという意味での「性(せい)」という言葉は、江戸時代にはありません。もともとは「性(さが)」のように、「その人が元から持っている本質」を表す字として使われていました。それが明治時代になって、性別や性欲こそが人間の本質であると考えられるようになった。そこで「性(せい)」という概念が成立します。

 「性」を具現化していったのは「科学」の言葉でした。人間は種の保存という本能を持っており、子孫を残すにふさわしい異性を選ぶ。男らしい男や、女らしい女が選ばれ、それ以外の存在は淘汰(とうた)されてきた。それこそが、私たちの持っている「性」なのだ――。

 こうした「生物学的な」人間観を前提にすると、男女とは「性」を媒介として関係をつくるものであり、友情は成立しないということになります。

 他方で近代社会は、男女同権、男女平等という考えも生み出してきました。「性」が違っても「同じ人間」として対等なつきあいができるのではないかという期待が出てくるわけです。

 江戸時代であれば、「男性が女性よりも優れており、上下の関係にある」ことは自明視されていました。身分によって男女や家族のありようが異なる面はあったものの、対等な友情関係が期待されることはなかったのです。

「普選断行」のたすきをかけ普通選挙法制定を求める運動に参加する女性たち=1922年撮影

妻は真の友であるか?

 ――近代社会になって、一変したということですか。

 男女の違いを意識しない文化や社会は、皆さん想像しづらいと思います。しかし、その違いをどのようなものとして理解するかは、時代や文化によって違っていました。

 明治20年代、婦人雑誌「女学雑誌」を刊行した巌本(いわもと)善治は、自分の愛する女性のことを「親友/真友」と呼んでいます。これは男女の間に上下関係があるのが当たり前だった当時としては、とても新しいことでした。

 巌本は、貧富や年齢、貴賤(きせん)の別によらず、人間として同等の関係を結べるのは配偶者しかいないと考えました。だからこそ妻は「本当の自分」をさらけ出すことができる「たったひとりのあなた」になると。

 ――まさに「男女の友情」が成立していた、ということでしょうか。

 むしろ、「男女の友情」こそが「恋愛」として理想化された、と言えるのではないでしょうか。

 どういうことかと言うと、「女学雑誌」が理想としたのは、「男は仕事、女は家庭」という、近代国家が求める性別役割分業にのっとった夫婦像でした。職場での仮面を脱ぎ捨てた男の「本当の自分」を受容してくれるのが、家で待つ「真友」としての妻というわけです。友情といっても、男女の役割は違うことが前提とされていたのです。

モーレツ社員の合宿訓練。「やる気!やる気!」と叫びながらゴムホースで机になぐりつけ、気合いを入れたそう=1969年撮影

 ――私たちが思う「友情」とは、ちょっと印象が違いますね。

 そこに、先ほど言ったような「性」に基づく生物学的人間観が「結託」していきました。

 恋愛とは、「たったひとりの自分をわかってくれる相手」を求める関係。そこだけを見れば、性別は関係ない。むしろ友情でもいいし、恋愛と友情とを区別する必要もない。その一方で、恋愛には「生物学的には男と女はこうあるはずだ」というジェンダー規範も内包されていった。

 つまり、当人は「たったひとりのあなた」を求めた恋愛のつもりでも、そこにジェンダー規範が入りこんでくる。逆に、抑圧的なジェンダー規範に基づくような恋愛をしていても、「自分で選んでいる」と解釈されやすい。そのようなトリッキーな側面が恋愛にはあります。

性愛で細分化する人間たち

 ――とはいえ最近は、同性間や一対一の関係にとどまらない恋愛関係も可視化され、あり方は変わってきたのではないですか。

 たしかに近年、恋愛の概念はかなり広がっているように見えます。それは、性の多様性が認識されるようになったことと結びついているでしょう。

多様性をうたう多くの旗

 しかし私は、一貫して恋愛は性に基づいた関係であり続けていると考えています。

 「プラトニックな恋愛」という言い方があります。「恋愛は性が媒介するものだけれど、あえて性的な関係を持たない」というあり方ですよね。「セフレ(セックスフレンドの略)」という関係も、「フレンド(友達)なのにセックスが入ってくる」ということを特筆すべき事態として命名している。「セックス恋人」という言葉は、聞いたことがありません。

 また、最近では「デミセクシュアル」「リスロマンティック」「ポリアモリー」など、性的指向や性に基づくアイデンティティーを名指す言葉がすごく増えています。なぜ性愛の領域だけ、こんなに名前が増えるのか、不思議に思いませんか。

 もちろん多様性を認識し、一夫一婦の異性愛のみを中心化する制度を改良していくことは必要です。日本は同性婚すら法制化されていません。しかし、カテゴリーの細分化は、人間を性愛に基づいて分類し、恋愛関係を社会の基盤に位置づける構造のなかで生じていることを見据える必要もあると、私は考えています。

【後編はこちら】恋愛至上主義の火付け役は朝日新聞 男の理想、女にとってマシな選択

「恋愛至上主義」にも疑問を抱く私たち取材班。しかしその火付け役は朝日新聞の連載だった?

ご意見お寄せください

 近代社会と共に生まれた「恋愛」という強固な概念。次回以降は、それが今どう変化しているかを考えます。そもそも皆さん、恋はどのように始めますか。マッチングアプリでしょうか。セフレ(セックスフレンドの略)から始まることも? ご意見をお寄せください。恋バナも待ってます。LINEは「@asahi_shimbun」から。メールはgender@asahi.comへ。

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