連載「100年をたどる旅~未来のための近現代史」日米編②
相手国との関係を読み誤り、戦争に突き進んでしまったのは、日本も同じだった。
「物事を現実的、具体的に考えれば、米英の経済力、国力も正当に評価しえたであろう。そうすれば、独伊と結んで日本独自の経済圏をつくりだそうというようなことは、現実性のない夢に過ぎないことも、明らかだった」
敗戦からまもない1951年、外務省の若手官僚が報告書を作った。当時の吉田茂首相の指示だった。「日本外交の過誤」と題し、米国との無謀な戦争に至った先輩たちの失敗を検証した。
日本が「現実性のない夢」を追った過程は、2人の「知米派」の行動からも浮かぶ。
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「侵略主義とか、領土拡張政策というがごとき、事実不可能なる迷想によって動かさるるものではありませぬ」。24年7月1日、外相に就任したばかりの幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)が帝国議会で外交方針について演説した。
代わりに、よりどころとして挙げたのは、21~22年にワシントン会議で結んだ諸条約だった。これにより、太平洋や中国の安定のために日英米らが協力し合う「ワシントン体制」が生まれた。「政府は同条約の精神によりまして終始致さんとする」。幣原は議会演説でこう述べ、多国間の協力を誓った。
多大な犠牲を生んだ第1次世界大戦後、国際連盟を中心とした多国間協調をめざす動きが世界中で広まった。日本でも、特に英米との協調が不可欠との認識が定着する。その中心となったのが、外交官出身の幣原だった。
「知米派」幣原を表すエピソードがある。
参事官としてワシントンの在米大使館で勤務していた12年ごろ、米国の移民排斥が問題となっていた。幣原が英国の駐米大使に助言を求めると、「歴史的に米国人は外国に不正をするが、自ら矯正もする」「長い目で国運の前途を見つめては」と諭された。中央大学の服部龍二教授(日本外交史)は「米国は難しい相手だが、大局的な視点を持って付き合うことが重要と学んだはず」と話す。
その後に起きた第1次大戦は、米国の参戦で終結に向かう。米国は民主主義の理念を掲げ、軍事力、経済力ともに世界で圧倒的存在感を発揮した。この新しい覇権国と日本はどう付き合うべきか。「幣原は米国の力を冷静に認識していただろう」と服部氏は話す。その先にあったのが、ワシントン体制だった。
幣原外交は、30年のロンドン海軍軍縮条約で頂点を迎える。英米の外交官は幣原を高く評価し、駐日米大使は晩餐(ばんさん)会で「日本が太平洋における平和の保護者である」とまで言った。
しかし、翌年には英米協調路線は行き詰まりをみせる。
31年1月23日、帝国議会では別の外交官出身の政治家が、幣原外交を追及している。
「日本は【連載初回はこちら】決死の行動に出る」警告届かず 日本通だった米大使の悲劇
1941年12月8日、日本軍が米国ハワイの真珠湾を攻撃し、日米は戦争に突入しました。米側にとっては「奇襲」だったとされますが、日本による攻撃の可能性を事前に指摘し、回避しようとした米国の外交官がいました。
否定された幣原路線 実は「陸軍と大差なかった」
「ただ米国人の気受けさえよければよろしい、感情さえよくすればよろしいという風に見える」と批判し、「完全なる対等平等観の上に立脚して、相互の尊敬を基調とせざる国交は欲しない。米国人の安全観も大切でありましょう。しかし日本人の安全観と自尊心も大切であります」と「対等」外交を求めた。
後に外相として、米国との対立路線を進めた松岡洋右だった。
幣原の協調外交にとって致命…