「スーパーもとや」の店内に立つ本谷一知社長。足元には泥水が押し流した商品などが残る=2024年10月3日、石川県輪島市、林敏行撮影

 早く会いに行かなければ。

 でも、見るのが怖い。

 あの場所が壊れているのを目の当たりにしたとき、冷静にカメラのシャッターを切れるのだろうか――。

 能登北部を9月21日、豪雨が襲った。

 石川県輪島市町野町の「スーパーもとや」は、元日の能登半島地震で周辺が壊滅的な被害を受ける中、発災直後から一日も休まず営業を続けてきた。

 その「もとや」が、休業を余儀なくされた。

土砂や流木が入り込み、甚大な被害を受けた「スーパーもとや」=2024年9月22日午後3時8分、石川県輪島市町野町、有元愛美子撮影

 2カ月ほど前に取材したお店だった。町野町唯一のスーパーで、地域を支え、地域に支えられ、「お客さんはみんな家族みたいなもんやから」という経営者一家の言葉が印象的だった。

 今回の豪雨で町野町はとりわけ大きな被害を受けた。

 SNSやテレビのニュース、発災翌日に町野町に入った同僚記者の記事で、「もとや」の店舗が完全に壊れてしまっているのを目にした。

 川があふれ、流木がガラス戸を突き破り、店舗に濁流が入っていた。

 社長の本谷(もとや)一知(かずとも)さん(46)は淡々とテレビのインタビューに応じていたが、取材でとてもお世話になった一知さんの母、理知子さん(73)が疲れた表情でとぼとぼと歩いているのも映っていた。

豪雨翌日の本谷理知子さん。「もう今度こそ無理なのかもしれない」と話していた=2024年9月22日午後3時41分、石川県輪島市町野町、有元愛美子撮影

 大きな災害が起きると、被災地には県内外から大勢の記者が駆け付け、分担しながらチームで取材を進める。輪島市街地に住む私は、主に市街地での取材にあたった。山々を隔てた町野町まで、なかなか来ることができなかった。

 やっと訪れることができたのは、発災から1週間後の28日。乾いた泥が舞い上がり、まち全体が白っぽく見えた。

 「もとや」の前には大きな流木が横たわり、正面のガラス戸は破れ、中でボランティアが泥をかき出しているのが見えた。

 ちょうど、一輪車を押して泥を運ぶ一知さんがやってきた。

 「みんな、そうやって悲しそうにしてくれるけど、元気ですよ」

 むしろこちらを元気づけるように、一知さんは言った。

 「理知子さんは? 一郎さんは?」と、一知さんの両親の様子を尋ねると、一知さんは「元気、元気。いま、仮設におるよ」と教えてくれた。

柱に残る泥水の跡を指さす「スーパーもとや」の本谷一知社長=2024年10月3日、石川県輪島市、林敏行撮影

 21日、「もとや」はいつも通り午前8時に開店した。

 地震で倒壊した建物の解体を担う作業員たちが来店し、その話から、一知さんは土砂崩れで町野町が孤立したことを知った。

 外では激しい雨が降り続き、店のすぐ先の川から濁流があふれ出た。

 店舗入り口の自動ドアの下から、茶色い水がしみこんできた。店にいた一郎さん(76)と理知子さん、従業員で、商品が水につからないように、棚の上に上げ始めた。

 水位はみるみるうちに上がっていく。

 ガン、と音がして、どこからか流れてきた大木がガラス戸を突き破った。一気に水が入り込み、重たい棚まで次々と水に浮き始めた。

 一知さんは従業員用の休憩室がある2階に逃げながら、さらに屋根の上に上がって茶色い海のようになった周囲を見渡しながら、スマートフォンで一部始終を動画に撮り続けた。

 「浸水してきました」

 「わー、車流されてる。あかん、あかん、あかん」

 動画には、一知さんの声が入る。

 水が引いた後、すっかり壊れてしまった店舗に入り口から入り、「店内の商品はすべて棚ごと奥まで流されています。床は泥水で思うように歩けません」と解説しながら撮影した。

【動画】能登北部を襲った9月21日の記録的な大雨。「スーパーもとや」の社長・本谷一知さんが記録した、濁流が押し寄せ店が浸水していく様子=本谷一知さん撮影

 撮り続けたのには、理由がある。

 元日の地震でも、町野町は甚大な被害を受けた。

 輪島市、珠洲市、能登町の市街地から山を隔てた位置にあるこの地域で、いまある唯一のスーパーが「もとや」だ。1961年に創業し、生鮮食品はもちろん、日用品から家電までそろえ、地域を支えてきた。

 元日は年に1日きりの休業日だったが、停電と断水の中、水や懐中電灯、乾電池を求めて顔なじみが続々とやってきた。翌2日の初売りに備えて仕入れていたパンや水を提供し、駐車場にテントを張ってストーブをたいた。余震の恐怖で眠れない地域の人たちが身を寄せ合った。

 翌日以降も、停電で動かないレジの代わりに電卓を使って営業を続けた。仕入れはできないが、懐中電灯で店内を照らしながら、「あるものでよかったら」と無休で客を受け入れた。

 「もとや」の奮闘は新聞やテレビで報じられ、支援物資やボランティアが集まった。

 駐車場では炊き出しが行われ、ボランティアや地域の人たちが交流する拠点にもなった。

 次第に、復旧工事を担う作業員たちも食料の調達に訪れるようになった。

 周辺の砂防工事に携わる作業員たちが昼食時に「もとや」でつかの間の休憩をとり、理知子さんを「お母さん」と呼んですっかり親しくなった。

本谷理知子さん(中央)とテーブルを囲むフジタの作業員たち。(左から)能登復旧作業所長の那波英剛さん、前田颯人さん、阿部大輝さん、高崎涼平さん=2024年7月16日午後0時58分、石川県輪島市町野町粟蔵、上田真由美撮影

 近所の人たちも、危険を伴う工事でこのまちを守ってくれる若い作業員たちをもてなそうと、畑でとれた野菜でつくったポテトサラダや、特大のオムライスをお昼時に差し入れてくれた。

 豪雨の日、動画を撮り続けた理由を一知さんは「地震のとき、メディアを通じて発信することで全国から支援していただいた。だから、今回も発信しなければと思った」と話す。

 動画はその日のうちにSNSで拡散され、支援を求める町野町の状況が広まった。地域の建設会社が徹夜で土砂を取り除き、隣町とつなぐ1本の迂回(うかい)路が切り開かれた。

 翌日にはもう、ボランティアが駆け付けた。

 いま、町野町には多くのボラ…

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