特急と新幹線を乗り継いで約1時間。吉田翔さん(40)は、佐賀市の自宅から勤務先の日本赤十字社長崎原爆病院(長崎市)に通う。中耳炎やめまいなど耳の病気、のどや口にできるがんなどの患者を診つつ、手術もする耳鼻咽喉(いんこう)科の外科医だ。一見すると分からないが、生まれつきの難聴患者でもある。
1984年生まれ。新生児の聴覚スクリーニング検査が普及する前で、難聴とわかったのは3歳と遅かった。中耳炎になった兄の診察についていったときだった。
「聞こえていないんじゃないか」
吉田さんの様子をみた医師が耳元で「パン」と手をたたいた。吉田さんの反応は鈍かった。
その後、詳しい検査で「先天性難聴」と診断された。すぐに補聴器をつけての生活がはじまった。
両耳とも100デシベル以上なければ聞こえない聴力と判定された。電車が通過する時のガード下ほどの音量で、聴覚障害としては最も重い。
赤ちゃんは親の会話などをたくさん聞くことで、自然と言葉を話せるようになる。聴覚障害があると、それは難しかった。発音の仕方、事物の呼び方、形容詞など抽象的なものまで、一つずつ教える必要があった。
母の啓子さん(67)は、病院の言語聴覚士のアドバイスで、絵日記を毎日つくり、ものごとと音を結びつけた状態で吉田さんが覚えられるように工夫した。
新聞や市報のイベント情報を頼りに、スケッチ会やマラソン、消防署見学や盆踊り。できそうなものにはなんでも参加し、体験したことを親子で絵日記で振り返った。父の敏幸さん(67)の発案で、夏に4泊ほどのキャンプに出かけたこともあった。
吉田さんは、めきめきと言葉を覚えていった。だが、補聴器をつけても聞き分けの難しい音があった。たとえば、「さ」と「た」。似た音の区別は難関だった。
「ろうそくの火が消えるのが『さ』。消えないのが『た』」。啓子さんは、発音するときの口の形を意識できるように教えた。
もう一つの難関は、「を」や「が」などの助詞。それ自体に意味はないが、話したり文を作ったりするときには欠かせない。絵日記に描いたその日の出来事とともに、短い文を添え、助詞の部分を「○」で囲んで目立つようにした。
小学校にあがる前には、目標…