板垣退助と事件時に着ていた血染めのシャツ

 「板垣死すとも自由は死せず」。その名言で知られる板垣退助遭難事件は1882(明治15)年、現在の岐阜市で起きた。自由民権運動の指導者で、自由党総理だった板垣が暴漢に刺された暗殺未遂事件である。事件はなぜ発生し、当時はどう受け止められたのか。政治家へのテロが目につくようになった今だからこそ、現場を歩きたくなった。

暴漢は小学校教員

 JR岐阜駅からバスで15分のところにある岐阜公園は、織田信長ゆかりの地として知られる。居城だった岐阜城に向かうロープウェーがあり、楽市を模した飲食店が並ぶ。しかし今回のテーマは信長でも戦国でもない。公園の片隅に立つ板垣退助の銅像に向かった。

 大きく胸を張ったその姿には、威厳がにじむ。かたわらの案内板には、事件の場面を生き生きと描いた絵がある。なるほどここで刺されたのですか、とご同行願った岐阜県郷土資料研究協議会の副会長、黒田隆志さん(69)に聞くと「いや、実はあっちです」と言って歩き出した。

 100~200メートルほど先に芝生の広がる場所があり、ここが実際の暗殺未遂の現場だという。当時は中教院という神道の大きな施設があり、板垣を囲んでの懇親会が開かれていた。といっても酒を飲んで親交を深めるのが目的ではなく、一種の演説会である。

 この日の板垣は体調が優れなかったようだ。途中で席を立ち、玄関を出ようとしたところを襲われた。当て身で応戦したが、胸や手など7カ所を刺された。犯人は愛知県の小学校教員、相原尚褧(なおぶみ)。

 「相原は師範学校を出ており、当時としては知識人だった。自由党に批判的な新聞をよく読んでいて、その論調に影響されたと言われています」と黒田さんは言う。「武士の家で育ったが、すぐに取り押さえられたところからみて、武芸が達者とはいえないでしょう」

 青白き……かどうかは分からないが、一種のインテリの像が浮かぶ。「自由党は皇室を誹謗(ひぼう)中傷していると思い込み、板垣を殺せばそれを止められると考えたようです。自分は正義だとして、暴力を正当化する。テロは今も昔も同じかもしれません」

警備の大失態

 そもそも板垣の遊説先として、岐阜が選ばれたのはなぜか。愛知県在住で、愛知・岐阜の自由民権運動を研究してきた若井正さん(74)に聞くと、地元の民権家による強い招致運動があったという。「自由民権運動は全国で盛り上がっていたが、岐阜では停滞していた。県令の小崎利準(こざきとしなり)が極度の民権嫌いだったことや、保守的な県民性が影響していたのでしょう。人気のある板垣を呼び、事態を打開しようとしていました」

 中心にいたのが岩田徳義(と…

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