100年をたどる旅 沖縄編 太平洋戦争開戦直前の1941年3月、卒業式で「蛍の光」を歌う神戸市の小学生たち

「100年をたどる旅~未来のための近現代史」沖縄編①

 卒業式で今も歌い継がれる「蛍の光」。1882(明治15)年に文部省(現文部科学省)が小学校の「唱歌」として発表したこの歌にはかつて、「沖縄」があった。戦後、歌われなくなった4番の歌詞だ。

 「千島(ちしま)のおくも 沖縄も 八洲(やしま)のうちの守りなり 至らん国に いさをしく つとめよわがせ つつがなく」

 沖縄はその3年前までに、明治政府による「琉球処分」で約450年続いた琉球王国が廃され、沖縄県が設置されていた。千島は、1875年にロシアとの樺太・千島交換条約で日本領となった北海道の千島列島、八洲は日本国の異称だ。

 明治維新を遂げたばかりの新政府は、歌によって国民の一体化を図ろうとした。日本に組み込んだ沖縄と千島を日本の「うちの守り」と示し、国土防衛に努めよと男たちを鼓舞する内容だ。

1890年代に出版された「新編教育唱歌集」(教育音楽講習会編)に載った「蛍」(今の「蛍の光」)の歌詞。4番は「千島のおくも 沖縄も やしまのうちの まもりなり」とある=国立国会図書館デジタルコレクションから

 3年前、「唱歌『蛍の光』と帝国日本」を著した大日方純夫(おびなたすみお)・早稲田大名誉教授(日本近代史)は「4番がたどった運命は、日本にとって沖縄がどんな存在であったかを物語っている」と話す。

 英国やロシアなど欧米列強がアジアへの植民地主義をあらわにした明治時代。当時、琉球諸島を初めて視察した内務大臣の山県有朋(やまがたありとも)は、政府への「復命書」で「沖縄は我(わが)南門、対馬は我西門にして最要衝の地」と報告していた。「外敵を恐れた当時の政府にとって、沖縄や千島など国境の島は国防の最前線だった」

拡張された前線 「国民の領土を意識させるため」

 ただ、4番の作詞過程で問題となる表現があった。「うち」か「そと」か、だ。

 作詞者は、文部省に音楽取調…

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