【連載】最後の空襲#4
焼け焦げ、崩れ落ちた建物と、カメラを見つめる人々の姿。
アングルを変えた2枚のモノクロ写真が、ほぼ唯一の物証だった。
1945年8月15日未明にあったとされる神奈川県の小田原空襲で焼けたという古い旅館だ。
そのときの当主が「記録に残したい」と、写真家に撮ってもらったと伝わる。
戦後34年の79年。
井上弘さん(70)は「戦時下の小田原地方を記録する会」を立ち上げ、小学校教諭の傍ら、体験者一人ひとりから証言を集め始めた。
《火の玉がバラッバラッと落ちてきたのが見えた》
《目の前の倉庫に焼夷(しょうい)弾が落ちた。15日正午、防空頭巾を肩にかけ、国民学校の地べたに座って玉音放送を聴いた》
《でも何のことかわからない。学校から帰ると家が熱くて入れず、泣いたのを覚えている》
空襲の記憶から学童疎開の記憶まで、延べ228人に聞いた。
米国の報告書にさえ記録のない小田原空襲の実像が浮かび上がった。
【初回から読む】最後の空襲 米文書に残された爆撃の理由
1945年8月15日。降伏が決まっていたのに、失われた命がありました。当時の子どもたちは、何を見たのか。人々は空襲をどう伝えてきたのか。最終回です。
被害を受けたのは、小田原駅…