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100年をたどる旅 沖縄編

「100年をたどる旅~未来のための近現代史」沖縄編②

 国家の意図は地図にも表れる。

 太平洋戦争が始まった1941年、大日本帝国の版図は、北は旧満州(現在の中国東北部)、南は東南アジアまで広がっていた。沖縄は政府にとって、日本列島の端に浮かぶ小さな島の一つにすぎなくなっていた。

 ところが、南方での戦況が悪化し始めると、政府は急速に沖縄へ軍事的関心を向け始める。44年3月、大本営は沖縄に初めて、本格的な部隊である第32軍をおいた。

 32軍の当初の目的は、南洋での航空戦を支援するための飛行場建設だった。沖縄は「不沈空母」と呼ばれた。だが44年7月、「絶対国防圏」の一角、サイパンが米軍に制圧され、まもなくフィリピンでも大敗すると、沖縄や台湾は国防の「最前線」に押し出された。

 戦後、沖縄が「捨て石」にされたと言われるゆえんとなる作戦計画が、この時策定される。45年1月に大本営が定めた「帝国陸海軍作戦計画大綱」だ。

県民の4分の1が犠牲に 日本軍は「同胞」を守ったか

 掲げられた作戦目的は、「皇土特に帝国本土を確保する」。一方で、沖縄を始め小笠原諸島など境界にある島は「皇土防衛の為縦深(じゅうしん)作戦遂行上の前縁」と位置づけ、敵が上陸した場合に「極力敵の出血消耗(しょうもう)を図」ることを求めた。「帝国本土」とその「前縁」を明確に分けた作戦だ。「沖縄県史 資料編23」で林博史・関東学院大名誉教授(現代史)は「ここで沖縄は、『皇土』すなわち日本本土とは切り離された」と指摘する。

 32軍も、日本から見放された存在だった。沖縄戦に従軍した古川成美は敗戦から4年後に出した体験記「死生の門」で、米軍の上陸直前、32軍司令部に立ち寄った方面軍参謀長が、長勇(ちょういさむ)・32軍参謀長らに話した言葉を記す。「米軍が、南西諸島や台湾に来攻した場合、中央にはこれを救済する手段がない。結局われわれは、本土決戦のための捨て石部隊なのだ。玉砕するの他はない」

 今年5月、「ひめゆり」発言が批判を浴びた自民党の西田昌司参院議員は沖縄戦について「(日本軍は)同胞を守るために戦った」と主張した。だが実態は、沖縄が日本の「そと」の守りとして扱われた末、多大な住民犠牲が生じたのではなかったか。

 戦死者の内訳(県の推計)が…

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