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元住民の男性と、昔の杉ノ下地区の話で盛り上がる小野寺敬子さん=2024年8月11日、宮城県気仙沼市、福留庸友撮影
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 東日本大震災で、住民ら93人が犠牲になった宮城県気仙沼市波路上(はじかみ)杉ノ下地区。台風が近づき、どんよりとした曇り空が広がっていた先月11日、丘に立つ慰霊碑に一人、また一人と、震災前、その周辺に住んでいた人たちが集まってきた。

 階上(はしかみ)地域まちづくり振興協議会語り部部会の4人は月1回、月命日に犠牲者全員の名を刻んだ慰霊碑に集まる。訪ねてきた人に声をかけ、あの日の出来事を「語り部」としてボランティアで伝える。

 昼ごろ、3人の家族連れが来ると、メンバーの一人、小野寺敬子さん(63)が駆け寄った。「こんにちは。今日はどちらから?」

 背中に「TEAM KATARIBE」の文字が入った青色のビブスを身につけた小野寺さんは、こう続けた。「海水がたくさん流れ込んで一生懸命逃げたけど、住んでいた人の3割が亡くなりました。亡くなった最年少は5歳の男の子でした」

 地区は市中部の太平洋側に位置する。津波の勢いは激しく、犠牲者93人の中には、市が指定した標高約12メートルの高台の避難所に逃れた住民約60人も含まれる。全85戸も流された。

 埼玉県から初めて被災地を訪れた藤島渉さん(41)一家はうなずきながら話を聞いていた。藤島さんは「この場所で聞くことで自分事として身近に感じた」と話した。長女光さん(12)は驚いていた。「映像でしか見たことがなかったので、実際に被害にあった人の話を聞くと大変さがよく分かる」

 しばらくすると、今度は一人の男性が慰霊碑の前で足を止めた。小野寺さんが話しかけると、元々地区に実家があった元住民の男性(46)だった。お盆の墓参りを済ませ、実家周辺を見ようと立ち寄ったという。

 小野寺さんが説明用にと手にしていた近くの海水浴場の写真で、話が盛り上がった。男性は「意識してなかったけど、今日は11日ですね。昔のことを話せることが本当に無くなってきた」としみじみ。地区の海沿いは震災後、人が住めないエリアに指定され、いま住んでいる人はいない。

 もうすぐお盆という時期で、その後も、ポツポツと人が訪れた。

 4人が月命日に慰霊碑で語り部を始めたのは、すぐ近くに見える東日本大震災遺構・伝承館が5年半前に開館したのがきっかけ。杉ノ下のことも自分たちで伝えたいと4人が自発的に始めた。

 伝承館の語り部のように予約…

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