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秋田商―洲本 一回、秋田商の武藤が走者一掃の右中間三塁打を放つ

 「地の利」があるとしたら、洲本(兵庫)のはずだった。

 全国の球児が憧れる甲子園。当時は兵庫大会でも使われ、洲本の選手にとっては、どの代表校より勝手知ったる球場だった。

 秋田商は5年ぶりの出場で、全員が甲子園は初体験。2年生で主軸打者だった武藤一邦(66)は、初めて球場を訪れたときを懐かしんだ。

 「すり鉢状の巨大な観客席に、とにかく圧倒されました」

 大会第5日の第2試合。意外にも、一回表に浮足だったのは洲本の内野陣だった。

 無死一塁から2番打者の遊撃左へのゴロは併殺かと思われたが、ここでエラーが出る。3番の一塁へのバントが野選を誘い、無死満塁になった。

 秋田商の4番武藤。翌年の秋に南海にドラフト1位で指名されるほどの強打者は右中間へ走者一掃の三塁打で3点を先行。この回、一気に大量5点を奪い、9―0の圧勝への流れを決定づけた。

 武藤は平常心で打席に入れた。

 「相手は左腕でやや横手から投げてくるタイプ。得意の右中間方向に流すイメージ通りのバッティングができました」

 洲本の守備の乱れを誘発した要因は何だったのか。試合翌日の朝日新聞の記事によると、洲本の監督が試合前、選手に注意したのは、「スタンドが白いのでボールから目をはなすな」という一言だけ。結果論で断じれば、心のケアには無頓着。油断が生まれた。

 一方、秋田商の監督、今川敬三の準備は入念だった。自分たちの試合までに選手たちを甲子園に慣れさせるため、他校の試合を見学させた。

 武藤は監督の指示を覚えていた。

 「観客席の自分のポジションに近い位置、かつ、一人で試合を見るように言われました」。神経を研ぎ澄ませて情報を得よ、との狙いだった。

 一塁を守っていた武藤は、一塁側の客席に座った。「白いシャツを着た人が多くて、スタンドが真っ白だった」

 困ったと思った。遊撃手や三塁手からの送球が見えにくいぞ、と。

 「でもね、しばらく試合を見ていたら、白球にダイヤモンド内の土が付いて、白くなかった。これは大丈夫だと安心できました」

 チームは兵庫県西宮市の旅館に泊まっていた。今川監督は西宮球場のプロ野球、パ・リーグの試合も観戦に行かせた。プロの豪速球を肉眼で見ることで、高校生の投げる球は遅く感じる。そんな狙いもあったかもしれない。

 秋田商OBである今川は、高校時代、エースとして甲子園に春夏計4回出場した。1960年春はベスト4まで勝ち進む原動力となった。身長165センチで「小さな大投手」と呼ばれた。

 「西宮の旅館に滞在すると、いろいろな人が監督を訪ねてきたんですよ。有名人に率いられているんだな、という感覚も普段通りの野球ができた要因かも」と武藤が懐かしむ。監督の口癖があった。「緊張するのは当たり前。だからそれを楽しむことが大切」「練習は世界一下手だと思ってやれ。試合では世界一うまいと思って臨める」。その教えは選手全員に浸透していた。

 秋田商が大勝した試合を、翌日の朝日新聞はこんな見出しで報じた。

 「速攻鮮やか秋田商/洲本内野陣の硬さつく」

 記事の結びは、こう締められている。

 「やはり甲子園は〝魔物〟なのだろうか。いや〝魔物〟が監督や選手の心にひそんでいるのだ」

 武藤はいう。「高校時代から甲子園を知り尽くしていた監督の気遣い、アドバイスが魔物をはねのけてくれたんですかね。魔よけの効果と言うのかなあ」

 ちなみに、朝日新聞の記事データベースで「甲子園 魔物」と検索すると、該当する最も古い記事が75(昭和50)年のこの試合だ。

 紙面での「魔物」のデビューは、ちょうど半世紀前の夏になる。=敬称略

第57回全国高校野球選手権大会 2回戦

秋田商(秋田)

500010300|9

000000000|0

洲本(兵庫)

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