首里の同窓会が管理する「養秀会館」の資料室。首里の前身・沖縄一中の戦没者の写真が並ぶ

 「先人たちの平和に対する強い思いとたくさんの苦労があったからこそ、私たちは平和で不自由なく野球ができていることを忘れてはいけません」

 第107回全国高校野球選手権沖縄大会の開会式、小禄の主将、新崎康楠(こなん)の選手宣誓だ。

 今年は戦後80年。開幕前日の13日、記者は第40回大会(1958年)に沖縄勢として初出場した首里を訪れた。同窓会が管理する資料室では、終戦直前の45年春、沖縄一中(首里の前身)の生徒たちが戦地にかり出されたことを伝えている。

 激しい地上戦の中で陣地を構築したり、途切れた電話線を修復したり、戦場を駆け回ったという。わかっているだけで県内の男子約1500人、女子約500人が動員され、多くの子どもが亡くなった。

 沖縄一中の戦没者を追悼するために作られた「一中健児之塔」の慰霊碑には、教職員、そして当時1~5年生の計307人の名が刻まれている。6月23日の慰霊の日には毎年、今の1年生約400人が参加して慰霊祭を開く。

 資料室の壁には、学業の半ばで命を失った戦没者たちの写真が並ぶ。あどけなさが残る表情ばかりだ。平和学習で資料室を見た首里の主将、金城咲志(しょうし)は「80年前はどれだけ悲惨だったか。当時の写真や銃を実際に見てこそ、感じられるものがある」。

 第40回大会で首里は初戦で敗れたが、観衆からは大声援が送られた。ただ、当時は米国統治下。本州に来るにはパスポートが必要で、甲子園の土は植物防疫法に触れるため、那覇港を目前にして船から海に捨てられたのは有名な話だ。首里は今年で創立145周年。中堅手の宮城輝夢(すたむ)は「今年こそ、首里に甲子園の土を持って帰りたい」。

 15日に初戦を迎える金城は「先輩たちに勇気や元気を与える野球を見せられたら」。戦後80年を無理に意識する必要はない。平和だからこそできる野球を、めいっぱい楽しんでほしい。

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