阪神・淡路大震災が起きた1995年、朝日新聞兵庫県版に掲載された連載「あしたの家族」のうち、千代田さん一家にまつわる「兄弟」の計5回(本編は4月4~7日、続編は9月13日掲載)を再配信しました。肩書や年齢は当時のままです。用語や表現などを改めた部分があります。(敬称略)

一家5人がれきの下に(あしたの家族 兄弟1)【1995年4月4日朝刊掲載】

 築27年の木造2階建て文化住宅「弥生荘」は、宝塚市仁川月見ガ丘にあった。

 1月17日、激しい揺れが1階の8室を押しつぶした。

 西隣で美容室を営む女性(45)は、驚いて店舗二階の住居から飛び出した。

 夜はまだ明けていなかった。闇の中に、一筋の懐中電灯の光が揺らめいて見えた。都市ガスのにおいが漂っていた。

     *

 市立仁川小学校五年の千代田雄輔(11)は、弥生荘1階の6畳間ではりの下敷きになった。

 母さと子(32)のうめき声が聞こえた。その呼吸は速まり、次第に遠ざかるのが分かった。同小1年の妹、萌(6)を呼んでみたが返事はなかった。

 隣で4歳の双子の弟が寝ていたはずだった。「康志(やすし)、泣け!」と雄輔は叫んだ。

 弥生荘周辺には、30人以上の近隣住民が救助に駆けつけていた。16世帯29人のうち、千代田一家の5人と年老いた女性1人が生き埋めになっていた。

 午前8時、5人の消防署員がポンプ車で到着。チェーンソーで、倒れた柱を切り崩し始めた。

 がれきの中から幼児の泣き声が聞こえた。

 双子のうち健志が、続いて康志が、ともに無傷で救出された。その約1時間後、雄輔が顔中砂まみれで救出された。

 雄輔と康志は、近所の女性が付き添う救急車で救急病院へ運ばれた。

阪神・淡路大震災で全壊した弥生荘=1995年、兵庫県宝塚市、田井良洋撮影

     *

 病院の待合室は急患であふれていた。女性は康志をひざに乗せ、首に軽い傷を負った雄輔のレントゲン撮影が終わるのを待っていた。雄輔は入院することになった。

 「タータン(お母さん)は? もえちゃんは?」と、康志が不意に舌足らずな言葉で問いかけた。

 女性も2人の安否が分からずに戸惑っていた。昨年の秋、さと子の長い髪をカットしたことが頭に浮かんだ。

 「もうすぐここに来るから大丈夫よ、やっちゃん……」と返事した。

     *

 康志を連れた女性は昼過ぎ、宝塚市立スポーツセンターへ向かった。双子のうちのもう一人、健志がそこにいると聞いた。避難所になった体育館の受付の男性に所在を尋ねたが、分からなかった。

 康志の顔を指さすと、「ああ! 見ましたよ」との答えが返ってきた。

 健志は毛布の上で横たわっていた。康志を見た途端に元気を取り戻して起き上がった。

 体育館に隣接する武道館では、さと子と萌が別々の毛布にくるまれて冷たくなっていた。すでに二十体ほどの遺体が並んでいた。

 崩れ落ちた弥生荘ではそのころ、さと子の前夫(44)がぼうぜんと立ち尽くしていた。

 

母子の遺体は故郷に(あしたの家族 兄弟2)【1995年4月5日朝刊掲載】

 千代田さと子(32)の前夫…

共有
Exit mobile version