「1・17のつどい」で竹灯籠(とうろう)に火をともす人たち=2025年1月17日午前5時16分、神戸市中央区の東遊園地、水野義則撮影

 最大震度7の揺れによって、6434人の命と日常が失われた阪神・淡路大震災から17日で30年になりました。追悼と祈りの1日に向けた被災地の表情をタイムライン形式で伝えます。

【動画】1月17日早朝、神戸市中央区の東遊園地で、慰霊のための竹灯籠(とうろう)や紙灯籠に火をともす人たち=水野義則、田辺拓也、白井伸洋撮影

05:47

遺族代表「日常のありがたさを知った」

 東遊園地の追悼式典で、小学校教諭の長谷川元気さん(38)=神戸市=が遺族代表として追悼の言葉を述べた。

「1・17のつどい」で追悼の言葉を述べる遺族代表の長谷川元気さん=2025年1月17日午前5時48分、神戸市中央区の東遊園地、水野義則撮影

 長谷川さんは震災で母(当時34)と弟(当時1歳)を亡くした。

 「家族や親戚、友達といった、自分の周りにいる人のありがたさ。そして日常のありがたさを、身をもって知りました」

 2014年から語り部として活動している。語り部の話を聞くことは、災害を自分事としてとらえることにつながる、と長谷川さんは考えている。

 「より多くの方々に防災、減災のスタートラインに立ってもらえるよう、これからも震災から得た教訓を語り継いでいきます」と話した。

【動画】東遊園地の1.17のつどいで遺族代表の言葉を述べる長谷川元気さん=水野義則撮影

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05:46

鎮魂の祈り込めた音色響く

 神戸市中央区の諏訪山公園ビーナスブリッジでは、トランペット奏者の松平晃さん(82)=川崎市=が地震発生時刻に合わせてトランペットを演奏した。人々が黙禱(もくとう)する1分の間、鎮魂の音色を響かせた。

【動画】神戸市中央区の諏訪山公園ビーナスブリッジで、発災時刻に合わせ、松平晃さんが慰霊のトランペットを演奏した。曲目は童謡の「どこかで春が」=近藤咲子撮影

 震災前日まで公演で神戸市内を訪れていた。1999年から毎年この場所で演奏を続けている。今年の曲目は童謡「どこかで春が」。眼下の神戸の夜景に向かって楽器を構え、朗々と吹き鳴らした。松平さんは「鎮魂の祈りと、子どもたちがあたたかい春を迎えられるよう願いを込めて吹いた」と話した。

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05:46

ドラム缶の鐘の音響く「頑張ってきた象徴」

 震災直後に避難所となった兵庫県芦屋市茶屋之町の西法寺では、ドラム缶でつくった鐘を地元住民らが突き、犠牲者を悼んだ。約20年にわたり親しまれた初代のドラム缶の鐘は老朽化が進み、昨年役目を終えた。境内には新調したばかりの2代目ドラム缶の鐘の音色が響いた。

 初代の鐘は、震災当時にドラム缶で風呂を沸かしたことにちなんでつくられた。初代と2代目の鐘をつくった芦屋市の工務店社長、藤野春樹さん(72)は「ドラム缶は電気や水道も何もない状態から頑張ってきた象徴。鐘の音を聞いて当時のことに思いをはせてもらいたい」と話した。

【動画】震災直後、避難所として寺の本堂を開放した西法寺では、ドラム缶でつくった鐘を地元住民らが突き、犠牲者を追悼した。ドラム缶は今年新調したばかりの2代目だ=岡田真実撮影

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05:46

大時計の針、「あの時」で止まる

 日本標準時の基準となっている東経135度子午線上にある、兵庫県明石市の市立天文科学館では、職員らが大時計(直径6.2メートル)の針を5時46分で止め、黙禱(もくとう)を捧げた。

【動画】兵庫県明石市の市立天文科学館で、阪神・淡路大震災が発生した午前5時46分、職員が大時計を停止させ、職員らが黙禱を捧げた=大久保直樹撮影

 停止に先立って、建物の壁面には「1.17 わすれない」のメッセージも投射された。

 震災当時、揺れで建物内部の親時計とのケーブルが断線。大時計は午前5時46分を指したまま止まった。応急措置で動き出すまで約1カ月かかった。

05:46

手書きで「1.17を語り継ぐ」「生きる」

 神戸市中央区の東遊園地で開かれた「1.17のつどい」では、「よりそう 1.17」の形に並べた灯籠(とうろう)を前に、発生時刻に合わせて1分間黙禱(もくとう)した。

 「よりそう」には、東日本大震災や能登半島地震など、他の震災も含めて被災地や被災者を忘れず寄り添い続けようという思いが込められている。

 灯籠には、手書きで「1.17を語り継ぐ」「生きる」「能登半島地震で被災された方が1日も早く日常に戻れますように」などのメッセージも書かれていた。

灯籠(とうろう)がともされ、浮かび上がる「よりそう 1.17」の文字の前で、阪神・淡路大震災が起きた時間に黙禱(もくとう)した人たち=2025年1月17日午前5時47分、神戸市中央区、白井伸洋撮影

05:46

34人犠牲の地滑り現場で住民ら祈り「後世につなぐ」

 大規模な地滑りが発生して34人が亡くなった兵庫県西宮市仁川百合野町では、地域住民ら50人以上が慰霊碑前に集まり、祈りを捧げた。

 現場では地震直後に幅約100メートル、長さ100メートルの地滑りが発生し、13戸の家が巻き込まれて34人が命を落とした。

 住民らでつくるボランティアグループ「ゆりの会」は、跡地に花を植える活動を30年近く続けている。代表の大野七郎さん(79)は「早いもので30年。ここがそういう場所だったことを後世につないでいただきたい」とあいさつした。

 慰霊碑の前には、地元の上ケ原小学校の児童約80人が描いた紙灯籠(とうろう)も並んだ。岩瀬寛明校長(55)は「教職員の3分の1は震災を知らない世代。職員間でもしっかりとつないでいかないといけない」と語った。

34人が亡くなった西宮市仁川百合野町の地滑り現場では、児童が描いた紙灯籠が慰霊碑前に並べられた=2025年1月17日午前5時50分、兵庫県西宮市、小池淳撮影

05:46

「ヴィッセルは復興と共に歩んできたクラブ」

 サッカーJ1ヴィッセル神戸の選手、スタッフ計58人が、神戸市中央区の東遊園地を訪れ、地震発生時刻に黙禱(もくとう)した。クラブは1995年1月1日に創設。震災が起きた同月17日は、チーム初練習を予定していた。

 吉田孝行監督は当時、神戸市西区にあるサッカー強豪校、滝川二高の3年生だった。「サッカーを通して震災を知らない世代にも(記憶を)伝えられればいいし、サッカーで勇気を与えられるようなクラブになれればいい。自分たちができることを精いっぱい頑張りたい」と話した。

 兵庫県尼崎市出身のDF山川哲史は「日常は当たり前ではなく、1日1日を大切に生きていかないといけないと思った。ヴィッセル神戸は復興と共に歩んできたクラブ。たくさんの方々に感動と勇気を与えて、少しでも前を向いて生きていける力になれるように、そういった選手、そういったクラブになれるように頑張っていきたい」と決意を新たにした。

05:30

「物言わぬ証人」を前に記憶と教訓の継承誓う

 震災で地表に現れた野島断層を保存する兵庫県淡路市小倉の北淡震災記念公園で追悼の催しがあり、被災者ら約250人が参加した。

 公園内の広場では参加者が次々と精霊流しをし、午前5時46分に合わせて黙禱(もくとう)した。「アメージンググレース」の合唱もあった。門康彦市長は「震災では市内で58人が亡くなり、当時を知る者として、南海トラフ地震に備えたい」とあいさつした。

【動画】淡路市の北淡震災記念公園で行われた追悼行事で、精霊流しや黙禱をする人たち=前林以恵撮影

 同公園総支配人の米山(こめやま)正幸さん(58)は震災時に地元消防団員として救出作業に当たり、いまは震災の語り部も担う。

 「悪夢のような日から30年になり、記憶の風化も進むが、震災記念公園には災禍を伝える『物言わぬ証人』の野島断層がある。記憶と教訓をしっかり継承していきたい」と話した。

05:00

優しい人だった祖母に「会えるなら…」

 追悼行事「1.17のつどい」が開かれている神戸・東遊園地で、震災の犠牲者を悼んでともされている「希望の灯(あか)り」の火が分けられた。火は「よりそう 1.17」の形に並べた灯籠(とうろう)につけられた。

 家族3人で訪れた神戸市中央区の小学校教諭、加藤依緒菜さん(26)は震災で祖母を亡くした。

 幼い頃から、困っている人のために汗をかける優しい人だったと聞かされ、「会えるなら、会ってみたかった」。

 毎年1月17日には追悼行事に足を運び、「見守っていてね」と祈ってきたという。

 南海トラフ大地震など大地震に備えておく大切さをかみ締めている。「小学校の子どもたちには、自分たち教員がいなくても自分の身は自分で守れるように伝えていきたい」と話した。

 発生時刻の午前5時46分に合わせ黙禱(もくとう)が捧げられ、その後、遺族代表が追悼の言葉を述べる。

■■■■■1月16日の動き■■■■■

17:46

発生12時間前にあわせ黙禱 「しのぶ気持ちと平和への願い」

 神戸市中央区の東遊園地では、「よりそう」の文字に並べられた紙灯籠(とうろう)の前で、地震発生時刻の12時間前にあわせて市民らが黙禱(もくとう)を捧げた。

 神戸市須磨区の女性(77)は、7年ほど前から毎年、灯籠を並べるなどの準備にボランティアとして参加している。

 震災当時、身の回りの被害は少なかったが、同市長田区の夫の実家が全焼した。地震直後に駆けつけて見た、街が燃える様子は今も目に焼き付いている。

 震災から2日後、長田区に住んでいた義父が亡くなった。寒い中公園に避難し、その後発熱。災害関連死だったという。「災害がなければ死ななかったと思う。しのぶ気持ちと、災害が起きず平和であるようにと願いを込めて準備している」と話した。

 神戸高校2年の山下稜輔さん(17)は、昨年に続き野球部として準備に参加した。震災を経験した地理の先生から、断層や土砂崩れのリスクがある地理を知っているだけでも、備えが変わると教えられた。「教訓として伝えていかないといけないと思った」

メッセージ入りの紙灯籠(とうろう)に火をともす人たち=2025年1月16日午後、神戸市中央区、杜宇萱撮影

17:46

「30年前のあの日、昨日のことのよう」

 兵庫県伊丹市の昆陽(こや)池公園で、阪神・淡路大震災の追悼のつどいがあった。震災翌年の1996年から続く恒例行事で、震災で失われた命の数と同じ6434本のろうそくに灯がともされた。

 日が暮れるころ、市内の中学生や住民らが集まりろうそくに一本ずつ灯をともしていった。午後5時46分、主催するボランティア団体「ユー・アイ・アソシエーション」の赤松弘揮代表(56)の呼びかけで、参加者たちは黙とう。赤松さんは「30年前のあの日あのときを昨日のことのように思う。いまは亡くなった人たちが生きていた時間。テレビを見たりご飯を食べたり、けんかをしたり。この時間にともし続けることに意味がある」とあいさつをした。

 地震発生時刻までの12時間、ボランティアらがロウソクを継ぎ足して灯を守る。

6434本のろうそくに火をつける参加者たち=2025年1月16日、兵庫県伊丹市、谷辺晃子撮影

17:46

ラグビー・コベルコ神戸の日和佐選手「何か感じるプレーを」

 ラグビー・リーグワンのコベルコ神戸スティーラーズの選手約20人が、神戸市中央区の東遊園地で黙禱(もくとう)した。前身は神戸製鋼ラグビー部。阪神・淡路大震災が起きたのは、日本選手権で7連覇を達成した2日後だった。

 元日本代表の日和佐篤は神戸市北区出身。震災時は小学1年生だったが、「本当にすごい揺れだったのは今でも覚えています」。点灯した紙灯籠(とうろう)には「和」の1文字を書いた。

 「『心穏やかに』という願いと、色々なつながり(の大事さ)という思いを込めた。地震を防ぐことはできないが、学びから生かせることはたくさんあると思うので、そこを大切にしたい。当時、プロ野球オリックスと神戸製鋼の存在が支えになった。僕も一生懸命、皆さんに何か感じていただけるようなプレーを必死になってやりたい」

 コベルコ神戸スティーラーズの選手とスタッフは、この日と17日、東遊園地での「阪神淡路大震災1.17のつどい」にボランティアとして参加している。

17:46

「生」のオブジェ、ライトアップ

 震災からの再生を願って、兵庫県宝塚市の宝塚大橋近くにつくられた「生(せい)」の文字の金属製モニュメントに、同市での犠牲者数と同じ119本のろうそくがともされた。地震発生時刻の12時間前の午後5時46分、集まった市民らが黙禱(もくとう)した。

 橋の下を流れる武庫川の中州では、石を積んでつくった「生(せい)」の字のオブジェが懐中電灯でライトアップされた。

「生」の文字のモニュメントの前で黙禱する子どもたち=2025年1月16日午後、兵庫県宝塚市、三浦宏撮影

16:00

両陛下、被災者と懇談 30年を振り返るパネルも見学

 天皇、皇后両陛下は神戸市の兵庫県立兵庫津ミュージアムを訪れ、阪神・淡路大震災の被災者ら4人と懇談した。

 20歳で被災し、避難所生活が半年以上続いたという新川修平さん(50)は現在、障害者のアート活動を支援している。皇后雅子さまは障害者が描いたコウノトリの作品を前に「温かみのある作品ですね」と感想を伝えていた。

 これに先立ち、両陛下は同ミュージアムで震災30年の歩みを振り返る特別展示を見学。地震の大きさや被災状況を伝えるパネルなどを見て回った。天皇陛下は「語り部活動」の紹介に興味深そうにうなずいていた。

兵庫県立兵庫津ミュージアムを見学する天皇、皇后両陛下=2025年1月16日午後3時29分、神戸市兵庫区、筋野健太撮影

16:10

能登地震の発生時刻にあわせ黙禱

 追悼行事「1.17のつどい」の準備が進む神戸・東遊園地では、能登半島地震の発生時刻にあわせて、黙禱(もくとう)があった。

 石川県輪島市で自治会長を務める刀祢(とね)聡さん(68)は「30年という長い年月、市民がどんな思いで参加してきたのか知りたかった」と東遊園地を訪れ、ボランティアとともに紙灯籠(とうろう)を並べた。

 黙禱を終え、「神戸で亡くなった人への哀悼の意と、何とか神戸の人の思いを能登に持ち帰って、私たちも能登のためにがんばりたいという思いを込めた」と語った。

阪神・淡路大震災の犠牲者を悼んでともされている「希望の灯り(あか)」の前で、能登半島地震発生時刻にあわせて黙禱(もくとう)をした=2025年1月16日午後4時10分、神戸市中央区、杉山あかり撮影

14:50

殿堂入りイチロー氏「神戸は今も特別な場所」

 野球殿堂博物館(東京都文京区)は、今年の野球殿堂入りを発表した。競技者表彰のプレーヤー部門に選ばれたイチロー氏(51)は、プロ野球・オリックスに在籍していた1995年、神戸市内にあった球団寮で被災。殿堂通知式のスピーチでは、震災当時を振り返り、神戸の街への思いを語った。

 「あすで阪神・淡路大震災から30年がたちます。当時僕は21歳。オリックスの寮で眠っていたんですけど、初めて命の危機というか、自分もこれで死んじゃうのかもしれない、寮があったエリアはそんなに大きな被害はなかったのですけど、それでも初めて命について考えさせられた時間でした。こういうことっていうのは、なかなか経験していない人たちに伝えていくのは大変難しいことなわけですけど、当時の被災者として経験した思いというのを、経験しなかった子どもたちにこれも伝えていけたらなと思っています。そして神戸は僕にとって今も特別な場所で、オフにはたまに神戸に寄ることもあるんですけど、これからも自分なりに進んでいく姿が、誰かのきっかけになったり、支えになったり、そんなふうになれたらいいなと思っています」

シーズン200安打を達成したイチロー=1994年9月20日、グリーンスタジアム神戸

14:40

石川の馳知事「阪神でできた法律・対応策、能登の前例」

 昨年の元日に起きた能登半島地震から1年が過ぎた石川県。馳浩知事は、記者会見で、阪神・淡路大震災について、「国家を揺るがす大規模な地震を経験し、後にできた国の法律や対応策、ほぼすべてが能登半島地震の際、県、被災地にとって前例として大変役にたったことが多々あった」と述べた。

 一方で、能登で起きた地盤の隆起やインフラの大規模な途絶に触れ、「前例になかったことも起きた。地震の検証と記録、政府とのやり取り、自治体との連携をしっかり残しておかなければと痛切に実感している」と付け加えた。

 知事によると、阪神・淡路大震災があった当時は新日本プロレス所属のレスラー。震災が政治家をめざす動機の一つになり、同じ年の1995年7月の参院選で初当選した。

12:00

銘板2人追加 「生きていれば、やさしいおばあちゃんに」

 阪神・淡路大震災の犠牲者や、復興に尽力した人の名を刻んだ「慰霊と復興のモニュメント」(神戸市中央区)に、新たに2人の銘板が加わった。遺族が名前のプレートを貼り付け、祈りを捧げた。刻まれた名前はこれで5070人となった。

 兵庫県尼崎市の松久保愛香さん(当時20歳)は地震で自宅のはりに挟まれ亡くなった。放射線技師を目指していて当時は短大の3年生。母・喜代子さん(82)によると、3人きょうだいの1番上で、下の子たちの面倒をよく見るしっかりした子だったという。「(愛香さんが亡くなり)こんなつらさをみるとは思っていなかった。銘板に名前が刻まれ、『よかったね』と語りかけました」

 同県芦屋市の清水豊子さん(当時45歳)は地震後も寒いなか自宅で片付けなどを続け、心臓発作で翌2月に亡くなったという。7歳下の弟の清水芳春さん(68)は「姉のために名前を刻めて晴れやかな気持ちが半分。もう半分は、生きていれば75歳で、やさしいおばあちゃんになっていたのではと残念な気持ち。もう一回会いたい」と話した。

松久保愛香さんの銘板を貼る母・喜代子さん=2025年1月16日午後0時21分、神戸市中央区、杉山あかり撮影

11:40

両陛下が神戸入り 追悼式典の出席は即位後初めて

 天皇、皇后両陛下が羽田発の特別機で神戸空港に到着した。17日に阪神・淡路大震災の追悼式典に出席するためで、天皇陛下が追悼式典に出席するのは4回目で、即位後は初めて。16日は斎藤元彦・兵庫県知事から復興状況を聞き、地元関係者と懇談する。

 震災翌月の1995年2月、皇太子だった天皇陛下は雅子さまと合同慰霊祭に参列。翌年の犠牲者追悼式、震災15年にあたる2010年の追悼式典などに出席した。毎年、震災の発生時刻にあわせて、両陛下や愛子さまはお住まいで黙禱(もくとう)しているという。

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