米軍による長崎への原爆投下から、9日で80年。1発の爆弾で、7万人以上の命が奪われたとされます。被爆地の痛みと、悲しみは今も続きます。犠牲者を悼み、あしたの平和を願う営みをお伝えします。
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19:50
「被爆マリア像」と歩む
長崎市の浦上天主堂から、平和を祈るたいまつ行列が始まった。カトリック信者らが約300本のたいまつを手に、爆心地公園までの約700メートルを歩く。原爆で傷ついた「被爆マリア像」も聖座に載せられ、参加者によって運ばれた。
17:45
「サッカーを通して平和を世界に」
平和を願って名付けられたピーススタジアム(長崎市幸町)は、被爆した軍需工場があった場所に昨秋開業した。この日夜、サッカーJ2、V・ファーレン長崎の平和祈念マッチ(J2リーグ25節・北海道コンサドーレ札幌戦)があった。
開始前のセレモニーでは、ピッチで原爆の犠牲者に祈りを捧げ、山口蛍主将がクラブの平和宣言を読み上げた。「V・ファーレン長崎にはサッカーを通して平和の大切さを世界に広げていくという使命がある。長崎を最後の被爆地に、という誓いとともに私たちは歩み続けます」
14:00
イラン大使が原爆資料館を見学
イランのペイマン・セアダット駐日大使は長崎原爆資料館を見学後、報道陣の取材に応じ、「(展示の内容に)怒りと痛みを感じ、動けなくなるほどだった。大量破壊兵器は人々に命の危機をもたらすだけだ」と話した。
イランは今年、イスラエルと米国から核施設への攻撃を受けた。ウラン濃縮を進めつつも核保有の意思は否定しており、「平和利用はNPT(核不拡散条約)が保障する権利だ」と強調した。両国の攻撃について「国際社会が強く非難しなければならない。核の軍事利用は許されないという思いを強めている」と話した。
13:10
被爆体験者らと石破首相が面会
長崎原爆被災者協議会など被爆者4団体と、国が定める被爆地域の外側で原爆に遭った「被爆体験者」の3団体が石破茂首相と面会。被爆者と認められていない「被爆体験者」を被爆者と認定するよう要望した。
長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会の川野浩一議長は認定をめぐる訴訟に触れ「依然としてまだ裁判闘争になっていることは非常に残念。もう被爆体験者は亡くなってしまう。早急に政府に決断をお願いしたい」と要望。石破首相はその後の記者会見で「昨年から幅広い疾病について被爆者と同等の助成を実施した。こうしたことを着実にしていきたい」とした。
12:00
長崎市出身、森保監督も参列 「エールを送れるように」
サッカー日本代表の森保一監督も、平和祈念式典で、一般の参列者にまじり手を合わせた。
長崎市出身で、高校までを長崎で過ごし、選手や指導者として広島で長年過ごすなど、被爆地とゆかりが深い。6日にあった広島の式典にも参加していた。
取材には、「いまの幸せな世の中、豊かな世の中が当たり前でないということを常に考えながら生活しなければならない」と強調。今も被爆の影響が続いているとの認識を示したうえで、「サッカー日本代表として活動する中で、被爆者や遺族の方々に励ましのエールを送れるように活動したい」と話した。
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11:40
石破首相あいさつ 復元の浦上天主堂の鐘にも言及
石破茂首相は9日、出席した長崎平和祈念式典でのあいさつで、原爆で妻を亡くし、自身も重傷を負いながら被爆者を救護した医師の永井隆博士(1908~1951)に触れた。永井の著書「長崎の鐘」から、「ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえ」の一節を引用し、広島と長崎の惨禍を「二度と繰り返してはなりません」と述べた。
永井はカトリック信者。爆心地となった浦上地区では、原爆のためカトリック信者約8500人が亡くなったとされる。
石破氏はあいさつで、原爆で破壊されたカトリック教会、浦上天主堂の鐘の一つが、80年ぶりに復元されたことにも言及した。石破氏自身はプロテスタントのキリスト教徒。
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11:20
被爆2校の児童「クスノキ」合唱
平和祈念式典では、当時被爆した城山小学校と山里小学校の児童計100人が、長崎市出身の歌手、福山雅治さんが作詞作曲した「クスノキ」を合唱した。この曲は、原爆の熱線で焼かれ枯死寸前となりながら、再び芽吹き、よみがえった木をテーマとしている。
両小は2000年の式典から交互に合唱を担ってきたが、被爆80年の今年、協調や平和のメッセージを力強く発信しようと合同合唱となった。
山里小6年の下(しも)梨花(りんか)さん(11)は「世界が平和になるよう、願いを込めて歌いました」。同6年の中村倫大(りんた)さん(12)は「(実際に見た)あの木のように力強く歌うことを心がけました」と話した。
2022年の式典を最後に活動を休止した被爆者の合唱団「ひまわり」も特別に集まり、被爆者の思いをつづり歌い継いできた楽曲「もう二度と」を3年ぶりに合唱した。
11:14
被爆者代表の93歳、平和への誓い
横浜市の西岡洋さん(93)は、車いす姿で演台に向かい、被爆者代表として平和への誓いを読み上げた。
被爆地から離れた神奈川県を拠点に被爆の実相を語り継ぐ活動に尽力している。次世代へ証言を残す取り組みとして、人工知能(AI)を使った語り部システムの構築にも協力してきた。
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11:03
長崎市長、平和宣言で停戦呼びかけ
「武力には武力を」の争いを今すぐやめてください。対立と分断の悪循環で、各地で紛争が激化しています。
このままでは、核戦争に突き進んでしまう――。
被爆2世の鈴木史朗・長崎市長は平和宣言を読み上げ、紛争当事国に停戦への希望と、核戦争に突入することへの強い危機感を表明した。
平和宣言ではノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に言及。82年、米ニューヨークの国連本部で開催された国連軍縮特別総会で、被爆者として初めて演説した故・山口仙二さん(1930~2013)の「ノーモア・ヒバクシャ」の演説が引用された。
- 【平和宣言全文】「武力には武力」の争いやめて
11:02
「野球できること、当たり前ではない」創成館の選手ら黙祷
今夏の甲子園に出場し、初戦を突破した創成館(長崎)の選手たちは、宿舎の大阪府堺市のホテルでこの日を迎えた。11時2分、長崎の方角を向いて黙禱(もくとう)した。
下川輝主将(3年)は佐賀県出身。「原爆から80年経つが、自分たちが大好きな野球をできることは、当たり前ではないと思う。感謝の気持ちを持って全力でプレーしたい」と決意を語った。
長崎市出身の伊藤大空選手(3年)も「被爆した祖母から、当時の様子を聞いている。スポーツができる平和が本当にありがたい」と話した。
10:40
原爆投下目標だった北九州市で慰霊式典
1945年8月9日、原爆の第1投下目標は、北九州市だった。上空の視界が悪く、米軍機は原子爆弾を積んだまま、数回旋回したのち長崎へ向かい、長崎で原爆を落とした。
北九州市小倉北区でも、原爆犠牲者を慰霊する式典があった。会場は、西日本最大の兵器工場「小倉陸軍造兵廠(しょう)」があった勝山公園。市原爆被害者の会の吉田龍也会長らが出席し、長崎の方角に向かって手を合わせた。
10:00
小雨の中 会場への入場始まる
小雨の降る中、長崎市の平和公園にある平和祈念像の前に設置された大テントの下に設けられた式典の会場に参列者の入場が始まった。市は被爆から80年の今年、大テントを新調し、真っ白なテントに雨が打ち付けた。
長崎市は今年、昨年は招待を見送ったロシアやイスラエルなど紛争当事国を式典に招いた。昨年の式典では、イスラエルが招待されなかったことに反発した米英など主要6カ国の大使が欠席し、議論を呼んだ。
09:50
「平和賞で元気出た」 日本被団協の田中熙巳さんも参列
長崎市の平和祈念式典には、昨年、ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の田中熙巳(てるみ)代表委員(93)も参列。「去年の参列が最後かなとも思ったが、平和賞の授賞式でオスロにいって元気が出た。これからは若い人と交流して行くことが大事だと思う」と話した。
09:30
立憲・野田代表「メッセンジャーボーイをやりましょうか」
立憲民主党の野田佳彦代表は長崎市内で、国が線引きした地域外で原爆に遭って被爆者と認められていない岩永千代子さん(89)らと面会した。岩永さんは被爆体験者を被爆者と認めるよう国や県、長崎市に求める訴訟の原告団長を務めており、石破茂首相に要望を十分に伝える機会が得られていないと主張。野田氏は「メッセンジャーボーイをやりましょうか」と申し出て、岩永さんから「総理大臣 石破茂様」と手書きで記された分厚い手紙を預かった。
野田氏は面会後、首相に向けて「ぜひしっかりと直接、聞いて下さい。中身をよく読んで下さい」と記者団に語った。手紙の渡し方については「お会いするか、必ず読んでもらうルートで(人を介して)渡すか検討したい」と話した。
09:15
888回目 小学校で平和祈念式
爆心地から約500メートルにあり、1400人以上の児童や教職員らが犠牲になった長崎市立城山小学校(旧城山国民学校)ではこの日朝、平和祈念式があった。
「平和は城山から」を合言葉に、平和を学ぶ取り組みで、この日で888回目。
5年生が平和学習で学んだ原爆の被害や平和の大切さを発表。「私たちが平和のバトンをつないでいきましょう」と呼びかけた。全学年の学級ごとに「命に順番はない みな平等」など、「平和への誓い」も表明した。
原爆の犠牲者を悼んで歌い継いできた「子らのみ魂(たま)よ」も合唱した。
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09:00
「平和への思い絵に託して」 キッズゲルニカ展示
長崎市の爆心地公園を流れる川の堤防の斜面には、子どもたちが平和を願って描いた「キッズゲルニカ」の壁画が展示されている。芸術家パブロ・ピカソの反戦壁画「ゲルニカ」と同じサイズ、縦3.5メートル、横7.8メートルのキャンバスを使う。今年は「共に生きる」をテーマに、長崎や広島、台湾、アメリカなどの子どもたちが描いた色とりどりの絵画12点を展示する。
主催する長崎親善人形の会「瓊子(たまこ)の会」の山下昭子会長(83)は「80年経っても戦争はなくならない。被爆地の長崎から世界に向けて、平和への思いを子どもたちの絵に託して発信していきたい」と話した。
07:00
高校生平和大使が「人間の鎖」
長崎市ではこの日、朝から強い雨が断続的に降り続けた。同市松山町の爆心地公園では午前7時、高校生平和大使らが雨ガッパを着て、平和を願う「人間の鎖」を作った。
集会には核兵器廃絶を求める署名活動を続けてきた高校生ら約40人が参加。代表して活水高校3年の島田朱莉さん(17)が「核兵器廃絶に向けて声を上げていく責任は、すべての人にある。核も争いもない、平和な世界の実現という強い思いを世界中に広げる」と宣言した。
広島県出身で、大阪府から参加した関西学院千里国際高等部2年の小久保沙羅さん(16)は集会後に「若い世代にとって、戦争は教科書にある歴史上の事実になっている。実際の被爆者の体験を伝えていきたい」と話した。
06:00
「語りきる人が10年経つと、もうおらん」
爆心地から約500メートル離れた浦上天主堂(長崎市)では、午前6時からミサが開かれた。信徒ら約200人が平和を願い、祈りを捧げた。
- 80年ぶりに復元された教会の鐘、和解の響き 日米の子孫出会い実現
ミサに訪れた藤田千歳(ちとせ)さん(78)は被爆2世。職場にいた父親は無事だったが、その母と当時の妻、子どもの計6人を爆心地から約250メートルの自宅で亡くした。
戦後80年。長崎でも原爆の記憶が薄まりつつある。そんな危機感を覚える。「語りきる人が10年経つと、もうおらん。映像や書籍で、起こった事実を曲げないで、ちゃんと記録に残していくしかない」
■■■8月8日の動き■■■
15:30
イスラエル、ロシア大使らが献花
被爆80年となる長崎原爆の日を控えた8日、長崎市内の爆心地公園にある原爆落下中心地碑で、各国の大使らが献花した。昨年招待されなかったイスラエルやロシアの大使らも花をたむけた。
イスラエルのギラッド・コーヘン駐日大使は記者団に「命を失われた方々、家族の方々、日本の方々に哀悼の意をささげるために、長崎に参りました」とコメント。核兵器禁止条約を批准するパラグアイのマリオ・マサユキ・トヨトシ駐日大使は「色々な国が核兵器を使うという脅しを使い、それが非難すらされなくなっている状況に非常に危機感がある」と話した。
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【動画】イスラエルやロシアなど訪問中の各国大使らが長崎市内の爆心地公園で原爆落下中心地碑に献花した=日吉健吾撮影
12:00
パレスチナ代表「長崎の平和への献身に敬意」
駐日パレスチナ常駐総代表部のワリード・シアム代表(大使に相当)は8日午前、パレスチナの現状について長崎市で講演。終了後、報道陣に「長崎のレジリエンス(回復力)と平和への献身に敬意を表するために、ここにいる」と述べた。
9日に市内である平和祈念式典に初めて参加するという。イスラエルも式典に招待されたことについて、「2日前もイスラエルはガザを攻撃した。彼らが何も学ばないのであれば、招待はするべきではない」とも述べた。
09:00
「きれいな水を届けたい」
長崎市松山町の平和公園にある平和の泉で8日、市内の小中高校生3人が水くみをした。9日の平和祈念式典で祭壇に捧げる水。「のどが乾いてたまりませんでした」などと記された石碑の前で、3人は「亡くなった方たちにきれいな水を届けたい」などと思いを込め、ひしゃくで水をくみ上げた。
3人は、市立西北小6年の池田小百合さん(11)、市立三川中3年の大原哲生(てっしょう)さん(14)、市立長崎商業高2年の栗原在(あり)さん(16)。式典では祭壇に水を捧げる役も担う。