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 力の進撃か、虎の反撃か――。一力遼名人(28)=棋聖・天元・本因坊と合わせ四冠=に芝野虎丸十段(25)が挑戦している第50期囲碁名人戦七番勝負の第2局(朝日新聞社主催)は3日、長野県高山村の旅館「緑霞山宿 藤井荘」で始まった。現代碁界の覇権を担う若き両雄が50年目を迎えた節目の名人位を争う。

【囲碁ライブ】一力遼名人ー芝野虎丸十段【第50期囲碁名人戦第2局1日目】(中継終了後、アーカイブはユーチューブ「囲碁将棋TV」のメンバー限定になります)

 昨年と名人、挑戦者の立場を替えての再戦。一力は初防衛を、芝野は復位を目指す。8月26、27日に鹿児島市で打たれた第1局は一力名人が終盤の逆転で先勝した。

 対局は2日制で持ち時間各8時間。3日午前9時に始まり、午後5時半以降に打ち掛け。4日午前9時に封じ手を開封して再開し、同日夜までに終局する見込み。立会人は張栩九段(45)、ユーチューブ解説は林漢傑八段(41)、新聞解説は蘇耀国九段(45)が務める。

 朝日新聞のデジタル版では、七番勝負の模様をタイムラインで徹底詳報する。

  • 2日目のタイムラインはこちら

張栩九段、視聴者の皆さまを接待詰碁【囲碁裏名人戦】

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  • ハンパではない一力遼の逆転力 衝撃の勝負手でつかんだシリーズ先勝

1日目総括

戦い継続か、ヨセ勝負か

 対局開始から両者は超ハイペースで打ち進めた。1日目の手数127手は、同じく両者の間で打たれた前期第2局などの120手を上回る名人戦史上最長手数となった。

 序盤から布石を素通りして戦端が開かれ、戦いに次ぐ戦いとなった。挑戦者は先に名人に実利を与え、下辺の白の大石の生死がかかるコウ争いに見返りを求めた。名人の大石が生きる間に、挑戦者も左下の白陣を大きく削る大変化に。それでも形勢の均衡は崩れないまま戦いは続いた。

 挑戦者は左上黒119と、白の小目の肩をつき、相手に陣地を取らせるのをいとわず攻勢を継続する。しかし黒125が緩着だったか。

 解説の蘇耀国(そようこく)九段は「ずっと最前線で戦っていたのに、一転して最終ラインにバックした感じ。少し違和感があります」。名人の白126を見て挑戦者の手が止まった。31分考え、次の手を封じた。

 「挑戦者がこのまま戦いを続けるか、それともヨセ勝負を選ぶか。次の手が分岐点です」と蘇解説者。消費時間は名人3時間44分、挑戦者3時間51分。

写真・図版
〈途中図〉先番・芝野挑戦者(1―126手)
88コウ取り(80)、91同(85)、96、99、102各同、104ツグ(85)

17:35

127手目を封じる

 午後5時半に封じ手の時間を迎え、上着を羽織った芝野挑戦者。さらに5分ほど考えてから、127手目を封じる意思を示した。

 序盤から早打ちで進んだ碁は、対局1日目の手数としては名人戦史上最長となった。

写真・図版
立会人の張栩九段(左)に封じ手の入った封筒を手渡す挑戦者の芝野虎丸十段(右)。奥は一力遼名人=2025年9月3日午後5時37分、長野県高山村、相場郁朗撮影

17:10

挑戦者、緩着か

 中央から上辺に延びる白石を巡る攻防が続くなか、名人の白1に挑戦者の黒2が大胆な積極策。左辺の黒模様をめいっぱいまとめる狙いと、中央の白を孤立させる二つの狙いを秘めている。しかし白3以下7のあと、黒8が打たれるとAIの評価値が互角から15%以下へと急降下した。

 黒8は左辺をいっぱいに広げて囲いにいく手ではなく、むしろ兵を引いてよく最低限の陣地化をめざした手に映る。AIは黒8に代えて黒9のオサエ提案していた。立会人の張栩九段は「黒2の積極策に対して、黒8は消極策。黒のリズムがおかしいように映る」と評した。

 名人の白9を見て、挑戦者が長考している。このまま次の手を封じる見込みだ。

写真・図版
〈途中図〉先番・芝野挑戦者(118―126手)

タイムライン連載「囲碁よ」第21回

おまじないの「6歳の6月」と父 吉原由香里六段

 6歳の6月に始める習い事は長続きするんだよ――。

 どこで知った言葉なのか、父は私が小学1年生になったら何かを始めさせようと思っていたみたいです。

写真・図版
囲碁名人戦第1局の関連イベントで指導碁を行う吉原由香里六段(左奥)。右奥は三島響二段

 囲碁の好きな祖父に話を聞かされて、じゃあ由香里にやらせてみようかって……。父自身も全く分からないから、まずは入門書を買ってきて、読んで私に教えてくれる。でも、学びながら教えるくらいだから全然分からないんです。陣地はこうやってつくるんだよ、あれ、違うか、なんてやっているので、もう全然楽しいと思えなかった(笑)。

 始めて少し経った後、駅前まで一緒に子供の囲碁教室に行った時のことでした。先生が出してくれた詰碁を私だけ解けなかったんです。みんなできることを私だけできないということがショックで、負けん気が発動したんですよ。分かるようになりたい、いや、なるんだ、という気持ちに。

 あと、父と通っていた教室の帰り道にサンリオショップがあったことも大きかったのかもしれません。良い成績を取ると、帰りに寄ってキティちゃんとかのグッズを買ってくれた。父親って、娘相手には財布のひもが緩むみたいで(笑)。父と教室に行ったらいいことがあるかもしれない、という思いも囲碁を続けられた最初の動機だったんだと思います。

 当時はまだ子供も少なかったので、ちょっとずつ強くなると、碁会所で大人たちに可愛がってもらえたんです。「由香里ちゃんは将来プロになるのかな」なんて。2年生でアマ初段くらいだったので、今考えたら特別早い成長ではなかったですけど……。大人に褒めてもらえることは、私にとってはすごくうれしいことでした。

 《14歳で加藤正夫名誉王座門下となり、院生(日本棋院の棋士候補生)に。以降8年間の苦闘の末、棋士になる夢を果たせたのは大学4年の12月、22歳の時だった》

 プロってすごいと思っていたから、自分がなれるわけがないとずっと思っていました。憧れはある、でもなれるわけがない、の繰り返しで。碁も弱ければメンタルも弱くて、どこかで「絶対無理」って思ってしまうんです。勝ちたい、勝たなくちゃいけない、と強く思うプロ試験の大事な時になって、緊張でおなかが痛くなったり、自分らしい碁が打てなかったり、ボロボロになってしまうんです。

 一手を打つのが怖くなるんです。両方でどちらか、という局面で間違った手を打てば、もう1年、苦しむかもしれない……1年後だって何の保証もない、という状況は本当に苦しくて、いつも逃げ出したかった。

 大学1年の終わりに年齢制限で院生を辞めなくちゃいけなくなって、数カ月後に父の病気が分かったんです。もう治るのは難しいかもしれないって聞いて……。

 3年の時、アマチュア本因坊…

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