米カリフォルニア州ロサンゼルスのハリウッドで2017年11月12日、性的暴行の被害者とその支援者のための抗議デモに参加する人々=ロイター

ミッシェル・ゴールドバーグ

 「ジョン・プロクターは悪役(John Proctor Is the Villain)」という舞台を初めて見たとき、私は涙が止まらなかった。そして何週間も、そのことが頭から離れなかった。物語は米ジョージア州の小さな町の高校を中心に進む。多くの女性が性被害を訴えた#MeToo運動が最高潮を迎えていた頃の話だ。

 同じように涙を流しながら劇場を後にした女性たちを、私はSNS上でも目にした。先週末に私は友人の女性と、再びこの舞台を見た。公演が終わり客席の明かりがつくと、友人は泣いており、前の列にいた女性も同じように泣いていた。2人は思わず抱き合ったのだが、それは今までブロードウェーの公演では見たことのない光景だった。劇場の外でも2人の女性が泣きじゃくっていた。

 少なくとも古代ギリシャのアリストテレスの時代から、演劇の主な目的のひとつは「カタルシス(感情の浄化)」だと考えられてきたが、ここまで直感的にそれを感じたのは久しぶりのことだ。そして、なぜこの舞台がこれほど多くの人に強烈な影響を与えているのか、私は考え続けた(米演劇界で最高の栄誉とされるトニー賞に今年、最も多くノミネートされた作品でもある)。

 この作品が力強い理由の一つは、#MeToo運動がまだ可能性に満ちていた時代へと、つまり運動への反発が起こる前の、より公正で平等な世界が始まるかもしれないと思えた頃へと、観客を連れ戻してくれるからではないだろうか。この作品は決して明るい内容ではない。罪のない少女が罰せられ、責められるべき男性は罰を受けないのだから。それでもこの物語は、今では欠けてしまったある種の希望に満ちている。

名前がついた「私たち」の思い

 作品の設定は2018年。魔…

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