「空襲で沿線の町々が焼けているというのに、恐らく乗客が一人も乗っていないだろう電車が、定刻通りに走っている。運転士は、上司の指示にしたがって定時に電車を車庫から出し、駅にとまることを繰返しながら進ませている」
作家の吉村昭は、終戦4カ月前の空襲直後の夜明け前、日暮里駅で目にした山手線の光景を、エッセー集「わたしの流儀」(新潮社)におさめた「定刻の始発電車」に記している。戦争という非常事態のもとでも、いつも通りに走る鉄道。だが、施設、車両、人員ともに大きな被害に見舞われながら、かろうじて動かしているのが実情だった。
まず深刻化したのが労働力不足だ。おおむね20~40代の男性職員は軍への召集に加え、外地の支配地域での鉄道建設や運行に派遣されて欠員が常態化。国鉄の欠員者数は1944年度に全職員約45万人の4割近くに達し、これを補うために女性職員が大量に採用された。36年度に約8千人だった女性職員は44年度に10万人を突破。山手線や中央線に女性車掌が乗務し、駅長と助役以外はすべて女性という駅も現れた。
繰り返される空襲に、現場は復旧作業に追われた。東京駅の丸の内駅舎をはじめ、多くの山手線、中央線施設が炎上した45年5月25日の山手大空襲。73年発行の「東京駅々史」(国鉄東京南鉄道管理局)によると、東京駅の火災は26日午前7時ごろに鎮火したが、「枕木は焼け、焼け落ちた鉄材などが線路を塞ぎ」という有り様だった。職員らはホームの焼け跡整理から始め、27日には列車5本を運行。山手線、中央線と順次再開し、1週間ほどで通常運転に復旧させた。
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