岡田茂。写真奥は京都撮影所・俳優会館=撮影年不明、東映提供

 映画のスタッフの中では一般的に監督に注目が集まるが、資金調達から公開まですべてを仕切るのがプロデューサー。戦後屈指の敏腕プロデューサーとして知られたのが、東映元社長の岡田茂(1924~2011)だ。

中国地方からは、日本映画を代表する監督、俳優らが多数輩出しています。その映画人たちは戦争とどう向き合ったのか。戦後80年を機に紹介します。

 広島県の西条町(現東広島市)生まれ。実家は酒問屋などを営んでいた。旧制広島一中(現広島国泰寺高)を経て、東京帝国大(現東大)に入学。卒業後の1947年に東映の前身である東横映画に入社した。

 豪胆な性格は雑多な人物が集まる撮影所の水に合った。統率力を買われて、27歳で現場を仕切る京都撮影所製作課長に抜擢(ばってき)され、興行成績の業界トップ奪取に貢献する。

 71年には社長に就任し、20年以上、東映を牽引(けんいん)。業界団体の日本映画製作者連盟の会長も長らくつとめ「日本映画界のドン」と称された。

 現在の東映会長の多田憲之氏(75)は、直接薫陶を受けた数少ない現役組だ。「社長というよりはまさに親分。口は悪いが人情味があって気前がいい。要求は厳しいが、良い仕事をすればきちんと評価してくれた」

 多田会長が北海道支社長時代…

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