80年前、日本がアジア・太平洋地域で続けてきた戦争が終わり、現在に続く戦後日本が始まりました。戦争はどのようなものだったのか、終戦前後の生活はどうだったのか。Q&A形式でのポイント解説やメモ、キーワードをピックアップした関連リンクでお届けします。
- 【終戦の日】陛下のおことば、石破首相の「反省」、各地の祈りを詳報
リンクで詳報しているキーワードは、満州、日米開戦、報道責任、特攻、沖縄戦、空襲、原爆、戦争体験、米軍基地、戦争トラウマ、などになります。
- 【戦争への道】ビジュアル年表で見る(1931~40年、41~45年)
なぜ日本は、米国との戦争に突入したのか?
第1次世界大戦を経て構築された国際秩序は、1929年の世界恐慌のころから崩れ始めていた。各国の経済をめぐる思惑は世界に緊張をもたらしていく。
【満州】日本とソ連の戦いは?→「砂上の国家 満州のスパイ戦」
南カリフォルニア大学東アジア図書館の協力で、旧日本陸軍の元将校らへのインタビュー音源を分析しました。証言録音に基づき、その戦いに迫ります。
日本は武力により中国への勢力拡大を進める。31年9月、日本軍が中国東北部を軍事制圧した「満州事変」が勃発し、軍部主導による傀儡(かいらい)国家「満州国」が建国を宣言。各国から批判を受けると33年に国際連盟からの脱退を通告し、全体主義(ファシズム)国家のドイツ、イタリアとの連携を強化していく。37年7月には中国との戦争に突入した。
39年9月、ポーランドに侵攻したドイツに英国、フランスが宣戦布告し、第2次世界大戦が始まる。日中戦争が泥沼化していた日本では、米英から中国への支援ルートの遮断や、石油資源の確保のために東南アジア方面へ進出する「南進論」が高まり、大義名分としてアジアの共存共栄のためとする「大東亜共栄圏」を提唱する。しかし、米国はアジア侵略を進める日本を強く警戒し、関係が悪化していった。
40年に「日独伊三国軍事同盟」が締結され、41年7月に日本軍がフランス領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)南部に進駐したことで、米国は日本への石油などの輸出を禁じ、対立は決定的となった。石油資源を米国に依存していた日本は追い込まれ、対米戦争やむなし、という世論も高まった。
11月に米国から三国同盟の実質的破棄や大陸からの撤退などを要求されると、日本は開戦を決断する。12月8日、英領マレー半島と米ハワイ・真珠湾を日本軍が奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まった。
【日米開戦】もっと知りたい方は→特集で
米との圧倒的な国力差をわかっていながら、戦争へと至らしめたものは何か。文書や証言から改めて問います。
メモ:大東亜共栄圏
日中戦争が泥沼化する中、日本政府は「大東亜新秩序」建設を唱えた。アジア一帯を欧米の植民地支配から解放し、日本を盟主とする経済圏をつくるとして掲げられたのが、「大東亜共栄圏」というスローガンだった。
太平洋戦争が始まると戦争目的としても強調され、東南アジアでは日本軍を解放軍として歓迎する動きも当初はあった。
しかし、日本軍の目的は石油資源などの確保にあり、スローガンは勢力拡大や軍事支配を正当化するものに過ぎなかった。日本軍に食料を徴発されたことによる飢饉(ききん)や、鉄道や道路建設に駆り出されるなどして、多くの住民が亡くなった。
戦後、日本はフィリピン、ベトナム、ビルマ(現ミャンマー)、インドネシアの4カ国に賠償金を支払い、マレーシア、韓国などには戦後処理の一環として経済協力を支出している。
【報道責任は】朝日新聞が検証した連載「新聞と戦争」
軍部に批判的だった朝日新聞はなぜ、戦争礼賛に傾いていったのか――。戦時下の「報道責任」を検証するため、朝日新聞はかつて「新聞と戦争」と題した連載を夕刊に掲載し、社論の変遷や社会の姿を伝えました。
終戦までの戦況、戦禍は?
戦争序盤、日本軍は優勢だった。フィリピンやマレー半島、インドネシアなどを数カ月のうちに占領し、油田やゴム資源などを確保。緒戦の勝利に国民は沸き立った。
しかし、1942年6月のミッドウェー海戦で日本軍は主力の空母を4隻失うという大敗北を喫し、米軍の反攻が始まる。ガダルカナル島の戦いは長期の消耗戦となり、そもそも国力で劣る日本は徐々に後退していく。
- 【ガダルカナルの戦い】残した教訓 アメリカ軍から見た真実とは
- 【アッツ島】黒ずむまで恋文を抱いた母 届かなかった最後の1通
アリューシャン列島のアッツ島や中央太平洋の島々で日本軍守備隊が次々と全滅し、前線の兵士たちは補給を絶たれて飢餓にも苦しんだ。44年春、英領インドへの侵攻を目指した「インパール作戦」では、無謀な補給計画が破綻(はたん)して3万人が命を落とした。
- 【インパール作戦】「西亜打通」 牟田口廉也中将だけの責任だったのか
夏以降になると、日本防衛の要所だったマリアナ諸島のサイパン島が陥落し、フィリピンに米軍が侵攻。ジリ貧の日本軍は10月以降、搭乗員ごと敵に体当たりする「特別攻撃(特攻)」に踏み切る。
【特攻】もっと知りたい方は→連載「特攻の記憶 『統率の外道』の果てに」
若者が次々と送り出され、「KAMIKAZE」は自殺攻撃の代名詞となります。なぜ、日本は特攻に突き進んだのでしょうか。当時の指揮官の発言や隊員の思いからたどります。
すでに敗戦濃厚だったが、軍部は天皇制国家を維持する「国体護持」のため、「本土決戦」「一億玉砕」を唱えて戦意高揚を図った。
【沖縄戦】もっと知りたい方は→連載「沖縄戦がおしえてくれること」
日本とアメリカは沖縄で約3カ月に及ぶ地上戦を繰り広げました。死者は双方合わせて20万人。なぜこれほどの人が犠牲になったのか。沖縄戦がいまの私たちにおしえてくれることについて考えます。
45年春に米軍が沖縄に上陸すると、高齢者や少年少女ら民間人も「根こそぎ動員」して時間稼ぎの戦いを続け、当時の沖縄県民の4人に1人が犠牲になった。
【空襲】あなたの街は 航空写真で比べる戦時と現在
炎上する工場、焼け野原が広がる市街地……。米軍などが残した多くの航空写真を元に、同じ方向、同じ角度から朝日新聞社の航空機で現在の街並みを撮影し、比較しました。
ドイツは5月に降伏。日本の主要都市は米軍の空襲を受けて焼け野原となり、8月6日に広島、9日に長崎に原爆が投下された。日本が講和の仲介役として期待していたソ連も8日に日本に宣戦布告。日本は無条件降伏を求めるポツダム宣言の受諾を決め、15日正午、天皇の言葉による「玉音放送」で国民に降伏が伝えられた。
- 【まとめて知る原爆】被爆80年、被爆者の思いは?世界の核兵器は?
メモ:戦時体制と国民生活
日中戦争勃発の翌38年、国家総動員法が公布され、戦争遂行のために人員、物価、賃金、言論などあらゆるものを国が統制する体制がつくられた。
40年には「大政翼賛会」が設立され、「町内会」や「隣組」はその末端として全国民が組織化される。米は配給制となり、国民1人あたりの配給量は一律に決められた。食料品や衣類といった日用品は、町内会や隣組を通さないと入手できなくなった。
41年には金属類回収令が出され、鍋や釜、寺の釣り鐘、マンホールのふたといったものまで国に供出された。
「ぜいたくは敵だ」といった思想統制も進み、戦争に反対すれば、特別高等警察(特高)に逮捕されることもあった。新聞や雑誌などは検閲を受け、戦争の状況は軍部による「大本営発表」として国民に伝えられた。
【戦争体験を知るには】声 語りつぐ戦争 朝日新聞の投稿データベース
読者の戦争体験を、サイト「声 語りつぐ戦争」で読むことができます。「空襲」「疎開」などのキーワードや地域、時期から投稿を検索でき、提供された写真やイラストも。体験者の肉声を伝えるポッドキャスト、当時の社会情勢や暮らしぶりを説明する「特別編」へのリンクもあります。
メモ:戦時下の学校教育
子どもたちを将来の兵士として育てる「皇国民の錬成」を主眼とするため、1941年に義務教育を6年制から8年制に延長し、小学校は国民学校(初等科)となる。中学以上の学校には将校が配属され、軍事教練が盛んに行われた。
各学校には「御真影(ごしんえい)」と呼ばれる天皇らの写真や教育勅語を収めた「奉安殿」が設置され、文部大臣を団長とする「大日本青少年団」に学校単位で加入し、整列登校や神社の清掃といった活動が義務づけられた。
【戦時中の様子は】写真で見る出陣学徒、防毒面装着防空大行進、学童疎開
戦火の時代を生きた人々と現代の人々のつながりを表現するため、当時と現在、2枚の写真を合成し紹介します。
戦況が悪化した44年には、中学校、高等女学校などの生徒たちが軍需工場に動員されるようになる。都市部の国民学校3~6年生の児童については、空襲を避けるために農山村へ集団で避難する学童疎開が始まった。
大学生への徴兵猶予は43年9月に停止され、翌10月に明治神宮外苑で出陣学徒壮行会が開かれた。
占領から主権回復までの歩みは?
1945年9月2日、日本は…