上小城昌昭さん=岡山県笠岡市、上田潤撮影

 あの日、祖父がいつも通りの列車に乗っていたら、自分の人生はその後、どうなっただろうか。岡山県笠岡市の上小城昌昭さん(85)はそんなことをよく考える。

 生後すぐに父が亡くなり、広島市中心部から約30キロ離れた高南村(現・安佐北区)の祖父母宅で暮らしていた。1945年8月6日はその家にいた。5歳だった。

 祖父は市内の日本通運己斐支店に勤めていた。普段は国鉄志和口駅から午前6時10分発の列車で出勤していたが、その日は1本遅い列車だった。

 あの朝、ちょうど庭に出た時、稲妻のような光を感じ、ドンという音と地響きが続いた。光った方を見ると、大きなキノコ雲が立ち上っていた。

 広島が大きな爆弾で全滅したらしいという情報が村役場から伝わった。昼過ぎに列車が到着すると聞いて志和口駅へ。

 ホームに入ってきた客車の窓から見える顔は、みな真っ黒。髪はぼさぼさ、横になっている人もいて、列車の洗面所もいっぱいだった。「水をくれ」という声が聞こえ、やかんやバケツを持ってホームを走る人もいた。

 翌7日も駅に行ったが、前日の体験が恐ろしく、立てかけてあった材木の陰から様子をのぞいていた。この日も祖父は帰らず、8日に祖母に連れられて市内に向かった。広島駅の狭い地下道は人でいっぱいだった。祖父の職場に向かい、路面電車の線路伝いに歩いたが、捜すあてもなく途中で引き返した。爆風で飛ばされた市電の車両が脱線して止まったまま焼け焦げていた。

包帯でぐるぐる巻きの男性が

 9日。志和口駅から自宅へ続…

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