戦艦大和の戦没者追悼式で献花する参列者=2025年4月7日午前10時55分、広島県呉市、上田潤撮影

 太平洋戦争末期、鹿児島県沖の東シナ海で戦艦大和が米軍に撃沈され、4月7日で80年を迎えた。大和が建造された広島県呉市では長迫公園(旧海軍墓地)で追悼式があり、約300人が慰霊碑に献花した。

 大和は1945年4月7日、9隻の僚艦と沖縄へ向かう途中、米軍の艦載機の波状攻撃で沈没。乗員3332人のうち3056人が戦死した。

 式を主催した「戦艦大和会」が把握する限り、最後の戦闘からの生還者で存命の人はいない。元乗組員の参列は途絶え、この日25人ほど参列した遺族も高齢化が進む。

 奈良県御所市の吉村孝史さん(83)は乗組員だった父の一雄さんを亡くしている。昨年、久しぶりに見た家族アルバムの初めのページに2歳の自分と父が写った記念写真を見つけた。10年前に亡くした母が貼ったもののようだった。写真の下には「呉市中通」と記され、一雄さんが休暇などで上陸した際に撮ったと考えているという。

 両親の結婚は父が大和に乗った後で、母は父の戦死まで4年ほどの間、ほぼ同居できなかったが、戦後も再婚しなかった。吉村さんは今回、父の写真を見て「それほど父のことを思っていたのか」と感じ、母の新たな一面を知った気がしたという。

 一雄さんの兄の一人も戦死している。「うちが珍しいわけでもない。太平洋戦争では300万人が亡くなったといわれている。戦争はまずしないことです」

 兵庫県西宮市の森野輝子さん(81)も乗組員だった父の脇本一夫さんを亡くしており、初めて式に参加した。父の戦死後に森野さんの母は父の実家から、子を置いて出ていくよう言われたと聞いている。結局、母は父の弟と再婚し家にとどまったという。「父が生きていたら人生が色々変わったんだろうと思います」

 和歌山県御坊市の横川郁夫さん(90)は、27歳で戦死した伯父の渡(わたる)さんが出撃前の1945年3月に帰省した際、「大和が沈んだら日本はあかんぞ」と言ったことを覚えている。幼い頃に同居していた渡さんは、帰省すると横川さんに南洋の話をし、ゴムの雪駄(せった)などの土産を買ってきてくれたという。横川さんは「もっと前に戦争が終わっていれば、大和が沈むことも原爆もなかった」と語った。

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