この記事は2017年9月18日付け朝日新聞朝刊宮城版に掲載されたものです。
下記、当時の記事です
名取市役所の近くに、そのジャズ喫茶はある。オーナーの男性が津波の犠牲になり、店は閉じたままだった。同じく震災で母親を失った女性らが引き継ぎ、カフェの再開を準備中だ。
店の名は「Jazz in パブロ」。玉田國昭さん(震災時60)が1984年の夏に開いた。閖上の海近くの自宅から、毎日通っていた。
窓のない蔵造りの建物は岩手県一関市の有名店「ベイシー」にならった。機材も凝りに凝っている。壁一面に4台のスピーカー。玉田さんはよくストーブの斜め後ろの席に座り、音の通りを確かめていた。
オーディオ室には1千枚ほどのLP盤が並ぶ。
エリントン。
ビル・エヴァンス。
コルトレーン。
マイルス。
お気に入りはやはりカウント・ベイシー。レコード棚の一番右上だ。コーヒーはドリップで丁寧に。客はさして多くない。じっとジャズに浸りに来た。
パブロは震災の2年前から休業していた。玉田さんが自宅で、老いた両親の介護を始めたためだ。
3人とも逃げ遅れた。もし店を続けていたら、運命は違っただろうか。
半澤由紀さん(30)はずっと、パブロのことが気になっていた。閖上で幼なじみだった同級生の父親が玉田さんだった。
美術を学んだ半澤さんは2015年春、仙台市に雑貨店兼アトリエを開いた。アンティークの調度品が見たくて、その年の夏、玉田さんの妻郁子さん(63)に頼み込み、パブロのシャッターを開けてもらった。
30年の歳月がぎゅっと閉じ込められた空間。ひと目ぼれした。
同じシェアオフィスにいた村上辰大(たつひろ)さん(31)を、すぐにパブロに連れて行った。映像会社を営み、DJとしても活躍する村上さんは、事務所兼カフェを持つ夢があった。玉田さんの音へのこだわりぶりを見て、村上さんの胸にズドンと雷が落ちた。
郁子さんは、夫のパブロはあれでもうおしまい、と思っていた。誰かに貸すなら、まったく違う店にしてほしい、と。
だが震災後、何人もの常連客から連絡が来て、どれほど愛されていたのかを知る。津波で写真も何もかも流され、パブロ以外に夫が残したものはない。
建物を借りることになった半澤さん、村上さんも、どんな店にしようかと悩んだ。郁子さんにも相談し、「パブロ」の名を継ぐことにした。
店長は半澤さん。カップやミルはそのまま使う。BGMには玉田さんのジャズコレクションと、村上さんが得意なヒップホップやファンクをかける。玉田さんが置いていった思いに、新しい命を、少しずつ吹き込めばいい。
開業の目標は12月。
半澤さんも、母優子さん(当時49)と伯母(52)をあの日に亡くした。
震災の時は東京で働いていた。地元に戻っても、津波を直接経験した人の気持ちはわからない。勤め先でも、周囲の気遣いが重荷だった。どうにも居場所がなくなり、海外へ逃げ出した時期もある。
いま帰れる場所が、ふるさとに見つかった。お客の中には震災で大切な存在を失った人もいるだろう。心を通わせ、癒やされる。そんなパブロにしたい。
郁子さんは今月、パブロから数枚のCDを持ち出した。夫が好きだったジャズを、久々に聴こうかしら。やっと気持ちのゆとりが生まれた。新しい店にも時々顔を出すつもりだ。
震災から6年半。
ターンテーブルが回り、針が降ろされる。パブロは再び、音を刻み始める。