この記事は2015年5月26日付け夕刊社会面で掲載されたものです。
下記、当時の記事です
津波で被災し、一部区間の不通が続いていたJR仙石(せんせき)線(仙台市―宮城県石巻市)。震災の日、高台に取り残され、一晩孤立しながらも、乗客乗員全員が無事だった「奇跡の列車」があった。途切れていた鉄路が30日、約50カ月ぶりにつながる。
命救った乗員の機転2011年3月11日午後2時46分 “その時”
「プイッ、プイッ、プイッ、プイッ――」
緊急地震速報が乗客の携帯電話を一斉に鳴らす。野蒜(のびる)駅(宮城県東松島市)を出発したばかりの石巻行き快速列車は、海近くの小高い丘を切りひらいたカーブで、緊急停止した。4両編成に計98人が乗っていた。
JR東日本仙台支社の指令室は津波の恐れがあるとして、指定避難所の野蒜小まで乗客を誘導するよう、無線で指示した。乗客を降ろし運転士の先導で線路を歩き始めた時、元消防団員だという男性客が告げた。「小学校は列車の位置より低い所にある。移動中に津波が来るかもしれないぞ」
それを聞き、運転士と車掌、乗り合わせたJR社員らが相談。列車にとどまろうと決めた。指令室に伝えようとしたが、無線も携帯も通じなくなっていた。
車掌は乗務歴1年半の渡辺貴之さん(27)。「判断が間違っていたら、責任はどうなると考えた。でも津波が来れば僕も死ぬのだから、クビとか関係ないなと思い直した」。JR東労組の聞き取りに、そう証言している。
津波到来~翌3月12日朝 “闇の中”
プロレスラーの近藤修司さん(37)は、石巻での試合に向かっていた。止まった場所は両側が崖で、海は見えず、津波といわれてもピンと来ない。「周りの人も半信半疑だった」
ところが数十分後、揺れは収まっているのに外の電線が大きくたわみ、次々と切れた。近藤さんは「何だこれ?」と驚いた。
最後部からは100メートルほど後方、左から右へと線路を押し流す津波が見えていた。車掌の渡辺さんは外に出て先頭に回り、そちらも津波が迫っているのを知る。第2波の方が高い、と誰かに聞いたのを思いだし、「逃げ場はない」と観念したという。
少し落ち着いたころ、線路に流れ着いた屋根の上でお年寄りが助けを求めていた。運転士や男性の乗客数人が水につかりながら救出し、列車に運び込んだ。
生命保険会社員だった竹内妙子さん(66)は、顧客を訪問する途中だった。サービス品のタオル数本を包帯代わりにと差し出した。ずぶぬれのお年寄りに、着替えを渡す旅行客もいた。
竹内さんの向かいには、野蒜小3年だった大槻陽平君(13)が不安いっぱいの顔で一人で座っていた。若い女性が肩を抱き、「大丈夫、大丈夫だから」と励ました。他の乗客は弁当や菓子を分け与えた。「みなが助かろう、助けようと、一丸となっていた。それで恐怖が少しずつ薄れた」と、竹内さんは振り返る。
寒くて、真っ暗な夜が来た。全員が3両目に集まり、他の車両の座席シートを外して床に敷き、身を寄せ合った。12日朝、明るくなるのを待ち、全員が避難所へ向かった。
「生きる勇気くれた」 2015年5月 “再出発”
竹内さんは東松島市の矢本駅近くに住む。津波は来なかったが、建物は半壊。震災後はバスなどを乗り継ぎ、仙台まで不便な通勤を続けた。仙石線は、野蒜付近の3・5キロ区間の線路を内陸部に移し、全線が結ばれる。竹内さんは「私たちの生活の希望です」と喜んだ。
現役レスラーの近藤さんは後で地図を見て「一つ命をもらった」と思い知る。野蒜小で犠牲になった人もいた。列車にとどまる判断をした運転士や車掌に、感謝を伝えたい、と言う。
大槻君は中学2年生になり、背が30センチ伸びた。「生きる勇気をくれた経験だった」と振り返る。あの日、野蒜駅で買った石巻までの切符を大事に持っている。ずっと忘れないために。
車掌だった渡辺さんは一昨年秋、運転士になった。全線再開の翌日、仙石線に乗務する予定だ。「あの日行けなかった石巻に、4年越しでたどり着く。お客様には大変お待たせしました」。JR東労組を通じ、感想を述べた。