1995年3月20日午前8時ごろ、都心の地下鉄で未曽有のテロ事件が起きた。日比谷線、丸ノ内線、千代田線の計5本の地下鉄車両内でほぼ同時に猛毒のサリンがまかれ、死者は14人、重軽症者は6千人以上にのぼった。後に「地下鉄サリン事件」と呼ばれる、オウム真理教の犯行だった。警察の捜査が教団に迫る中、首都を混乱させることが目的だった。

  • 「捜索に踏み切れなかった」オウム捜査の内情 極秘情報だったサリン
  • 証言からみたオウム捜査の分岐点 サリンへの危機感は十分だったか

 94年6月には長野県松本市でサリンが噴霧され住民が死傷した「松本サリン事件」が発生していた。警察はオウムの関与をうかがわせる証拠をつかみ、地下鉄サリン事件前からオウムに照準を合わせていた。

 それなのに、前代未聞の事件は起きた。

 「向こう(オウム)から打って出られた。早く捜索しておけばとの思いはあった」

 約30年の時を経て、当時、警察の刑事部門トップの警察庁刑事局長だった垣見隆氏(82)が学者や朝日新聞記者らのチームによる聞き取りに応じ、重い口を開いた。オウムの捜査を統括し、実質的な責任者だった垣見氏。捜査の全体を詳細に証言するのは初めてで、当時の捜査の経緯や判断が明らかになった。

 垣見氏の証言によると、警察庁刑事局は94年11月、オウムへの強制捜査に向け、具体的な計画を立てていた。着手は2、3カ月先。山梨県で起きていた監禁事件で捜索し、さらに宮崎県の拉致事件で大々的に捜索する――という内容だった。

 ただ、年をまたいでも捜索着手の検討は続いた。東京都内で95年2月末に拉致事件が発生したことで警視庁も捜査に加わり、3月中旬には大詰めの段階を迎えていたという。

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