寄稿 藤原辰史・京都大教授(農業史・環境史)
飢えは人を変える。小説『飢え』(1890年)の作者で、後にノーベル文学賞を受賞したノルウェーの作家ハムスンは、飢えに苦しむあまり自分の指をかじった男を描いた。『飢え』の描写をリアルだと絶賛した国連食糧農業機関の立役者ジョズエ・ジ・カストロは、故郷のブラジル東北部では西欧列強のサトウキビプランテーションの開発が自給経済と肥沃(ひよく)な黒土を破壊したため飢饉(ききん)が発生し、土を食べる習慣が生まれたことも記している。1932年から翌年のウクライナの大飢饉でも、大躍進時代の中国の大飢饉でも、人肉食が発生したことはよく知られている。
それゆえ、食料危機はいつも体制転覆の機運を高めてきた。
1918年7月から日本中で吹き荒れた米騒動は、シベリア出兵で陸軍がコメを大量に買い込むことを見越した投機的行為が最大の原因だった。売り惜しみに買いだめが跋扈(ばっこ)し、富山の漁村を皮切りに、全国各地で放火や打ち壊しが起こる。不満の爆発に政府は軍隊を派遣したが収拾がつかず、寺内正毅内閣は総辞職に追い込まれた。
食料不安に怯(おび)えた民衆が蜂起する――この事実は、食料価格高騰のあとのフランス革命にせよ、欧州が飢饉に陥ったあとの1848年革命にせよ、第1次大戦で食料危機に陥ったあとのロシアやドイツの革命にせよ、歴史法則といってもいいほどの反復性をもつ。
さて、現在のコメを筆頭とする日本の食費高騰も、貧困層に飢えをもたらしている。首都圏のフードバンクで食物を生活困難者に配布する知人から聞いたところ、物価上昇で食事に困り、受け取りの列に並ぶ人の数が最近急激に増えたという。だが、給料が生活費に追いつく気配がない。非正規雇用者の給料はさらに増えない。このまま、食費上昇があまり響かない富裕層が鈍感でいつづければ、政府不信はますます高まるだろう。
だから、現在の米騒動で私が不思議に思うのは、なぜこれほど騒ぐのか、ではなく、なぜこの程度しか騒がないのか、ということである。たしかに、天候や世界情勢の激変によって、食料の価格が上昇することはまれではない。ウクライナ戦争勃発(ぼっぱつ)後の燃料や肥料の価格上昇だって想定できる範囲だ。だが、食料自給率38%という経済先進国では珍しい生命の市場依存状態で危機を乗り切ろうとしている「綱渡り感」を怖がろうとしないのはなぜか。私は怖くてしようがない。
そもそも、人々の生命が市場…