夏の高校野球シーズンに、スリランカの8~13歳の球児15人が1週間ほど大分県別府市などに滞在する。今月4日に来日した後、5日に開幕する全国選手権福岡大会を観戦したり少年野球チームとプレーしたりする予定だ。野球がマイナースポーツのスリランカ。彼らを招いたのは、甲子園でも審判を務めた経験のあるスリランカ出身の元球児だ。
「野球の技術だけではなく、感謝の心を学びました」。スリランカ出身のスジーワ・ウィジャヤナーヤカさん(41)は言う。別府市在住で観光関連の会社に勤める傍ら、高校野球や社会人野球の審判として活躍する。
最大都市・コロンボから北に20キロほどのガンパハで生まれ育った。野球との出会いは25年前、高校に入学した直後だ。中学ではクリケットの選手だったが、野球部の練習をのぞいて釘付けになった。
他のスポーツとは違い、アウトになっても同じ回にまた次の打席が回ってくることもある。「失敗をそのままにせず、すぐに挽回(ばんかい)のチャンスがやってくる」。丸みを帯びたバットの物珍しさも相まって、野球の面白さにワクワクが止まらなくなった。
当時のスリランカには野球場がなく、道具を売る店もほとんどなかった。マイナースポーツである野球を知らない人が多く、苦労したこともある。学校から家に帰る時は、最寄りの鉄道駅から6キロほど歩く。父がバイクで迎えに来られない日は、通りすがりの車に家まで乗せてもらうこともよくあった。
ただ、野球を始めてからは車がほとんど止まってくれなくなった。「バットが何かわかるひとはいなかった。棒で殴りかかられると思って、怖かったんでしょう」
スジーワさんによると、当時の競技人口は200人ほど。高校や地域の野球クラブは、全国で10チームもなかったという。
その頃、国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊員から野球を教わる機会があった。野球の技術はもちろんだが、対戦相手への気遣いや感謝を学んだ。スリランカでは、反則プレーをする選手や、反則を見逃す審判が多かった。
「自分たちだけでなく、相手のことも思ってプレーする。そんな日本の野球精神に感動しました」
高校卒業後、1年ほど銀行で働き、2006年に来日。別府市の立命館アジア太平洋大学(APU)に留学した。その後は九州を中心に引っ越しや転職を重ね、いまも日本に住み続ける。
母国では09年まで内戦が続いていた。08年にコロンボで起きたテロでは、練習試合などで交流があった知り合いのコーチが巻き込まれ亡くなった。その経験から、野球ができる平和な環境への感謝も人一倍強く持つ。
母国の球児に野球道具を送る活動も15年以上続けてきた。日本で不用になったバットやボールなどを集め、船便でスリランカに送る。母国の球児が大切に使ってくれていることがうれしい。
スジーワさんは、10年末には審判委員として福岡県高校野球連盟に登録。15年春の選抜では、外国人として初めて甲子園で審判を務めた。
「自分が甲子園に行けたということは、他に行きたい人が行けなかったということ。感謝の気持ちを忘れてはいけないと今も思っています」
日本を目指す海外の球児たちには、努力は必ず実ると伝えてきた。この夏に招く15人にも、感謝の大切さとともに伝えたいと思っている。